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5☆s 講師ブログ

ピアノという名のリリシズム(2)

そして、迎えた1961年6月25日の日曜日。
エヴァンスの運命は、大きな転機を迎えることになります。
「ヴィレッジ・ヴァンガード」で録音されたライヴが、その後のジャズ史を大きく変えてしまったのです。

とは言っても、所詮はピアノトリオ。
エヴァンスの知名度が低かったこともあり、直前一週間の客の入りは惨憺たるものでした。
加えて日曜は、もっとも客足が落ちる曜日。
そこで、メンバー全員が知人や親戚に連絡を取り必死で集客を図ります。

しかし、アルバムに収録された疎らな拍手からは、結果があまり芳しいものではなかったことが窺えます。
名盤と言われる割りには、食器やグラスが触れ合う音や、客の雑談や笑い声まで録音されています。
この日の聴衆が、演奏に聴き入っていた様子は全く感じられません。
実際、最後の曲が演奏された時、残っていた客は数人しかいなかったそうです。

でも、歴史に残る名盤というのは得てしてそういうもので、発売直後は人々の話題に上らないことが多いようです。

ジャズファンなら知らぬ者のいない、アート・ブレイキー(ドラムス)の『バードランドの夜』だって、リリース当初は全く注目されませんでした。

コルトレーンの白熱のライヴ版『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』と、代表作『インプレッションズ』に至っては、ジャズ専門誌でさえ「コルトレーンらしくないポルカの演奏」だとか、「単なるウォーミングアップ」などと酷評する始末。

リヴァーサイドのオリン・キープニュースは、当時をこんな風に回想しています。
「私は“歴史に残る、売れないアルバム”ばかり作っていたことになる。当時はボビー・ティモンズ(ピアノ)やジュニア・マンス(ピアノ)の方がはるかに売れていた。彼らが演奏するソウルフルでファンキーなジャズには、それなりに支持者がいた。だが、ビルにはいなかった。つまり、それだけビルが“新しかった”ことになる」

後にマネージャー兼プロデューサーとなるヘレン・キーンは、エヴァンスのアルバムセールスに関して、ある法則が存在することに気づきます。
新作がリリースされると、なぜか数年前の古いアルバムの方が売れ出すのです。

どうやら、彼の音楽が世間に浸透するには、ある一定の時間が必要なようです。
この“時差”が解消されたのは、エヴァンスが亡くなる直前のこと。
そして、驚くべきことに、亡くなった途端にレコードセールスは飛躍的に伸びたのでした。

私はつくづく思うのです。
時間はいつも遅れていると。

例えば、エヴァンスも参加しているマイルスの代表作『カインド・オブ・ブルー』。
累計1千万枚以上のセールスを記録したモダン・ジャズ史上最大のヒットアルバムですが、1959年のリリースにもかかわらず、セールスの大半は90年代以降のものだそうです。

どんなアルバムだって、普通30年も経てば、人々の記憶から忘れ去られてしまうもの。
それが、逆にファンが増えていく作品なんて聞いたことありません。
世間では、こういうもののことを「ホンモノ」と呼ぶのでしょう。

さて、話を1961年6月25日に戻しましょう。
「ヴィレッジ・ヴァンガード」で録音された2枚のアルバム、『ワルツ・フォー・デビイ』と『サンデー・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』は徐々に世間の評価が高まり、最終的にはジャズ史に残る名盤にまで上り詰めます。

しかし、そのリリースには、ある不幸な出来事が関係していました。
録音の11日後、ラファロが運転するクライスラーが、ルート20沿いの大木に激突してしまったのです。
事故の原因は居眠り運転。
母親の住むジェニーバに向かう途中でのことでした。

享年25。
かつて、心臓発作のため50歳の若さで亡くなった父親の葬儀の席で、「僕は25歳で死ぬような気がするんだ」と呟いた天才の予言は、不幸にも的中してしまったわけです。

ラファロの死により、リリースの時期が一気に早まりました。
エヴァンスは、ラファロが書いた2曲をアルバムに加えます。
ラファロの恋人だったダンサーのグロリア・ゲイブリエルにちなんだ≪グロリアズ・ステップ≫と、≪ジェイド・ビジョンズ≫。

おそらく、遺族が印税を受け取れるようにとの配慮からでしょう。
この2枚のアルバムの最大の功績は、モダン・ジャズにおけるピアノの歴史を変えてしまったことです。
このアルバム以降、ピアノトリオだけでビジネスが成立するようになったのです。

もしエヴァンスがいなかったら、キース・ジャレットやチック・コリアがこれほど脚光を浴びることはなかったし、後のブラッド・メルドーの限りなくクラシックに近い演奏が、モダン・ジャズのカテゴリーに分類されることもなかったでしょう。

しかし、エヴァンスにとって、ラファロを失ったことは想像を絶するほどのショックでした。
4カ月もの間、ピアノに触れることさえできなくなります。
この時期のエヴァンスのことを、ポール・モチアンはこう表現しています。
「うちひしがれ、虚脱状態で、亡霊のようだった」

そんなエヴァンスを懸命に支えたのが、その年に知り合ったエレイン。
でも、夫唱婦随はひどく間違った形で現れます。
この内縁の妻もまた、深く麻薬に溺れてしまったのです。

やがて、エヴァンスはツアーを再開しますが、それはショックから立ち直ったというよりも、麻薬の借金があまりに膨れ上がったためでした。
2人分の麻薬代を稼ぐため、エヴァンスは休む間もなく世界中を飛び回ります。

ところが、ツアー先のロサンゼルスの「コンサーツ・バイ・ザ・シー」というジャズクラブで、ネネットという若いウェイトレスと運命的な出会いをしてしまいます。
これが悲劇の始まりでした。

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