株式会社ファイブスターズ アカデミー

まずはお気軽に
お問い合わせください。

03-6812-9618

5☆s 講師ブログ

俺を懲戒処分にしろ!(1)

ジャーナリストの永井隆は、著書『キリンを作った男』の中で、ビール業界の変遷に関するウラ話を披露しています。

1986年3月、住友銀行副頭取だった樋口廣太郎が、経営危機に陥っていたアサヒビールの社長に就任します。
後に樋口本人が永井に語ったところによれば、社長に就任した本当の目的は会社を再建することではなく、なんと「幕引き」だったそうです。
アサヒのメインバンクである住友銀行頭取の磯田一郎は、サントリーの佐治敬三社長に対して、密かにアサヒの売却を申し入れていました。
ところが、サントリーがこの申し出を断ってきたため、幕引きのために樋口を送り込んだというのが事の真相です。

ところが、樋口は就任直後にあることに気づきます。
優秀人材が多いのです。
アメリカ占領下の1949年、「過度経済力集中排除法」によって、大日本ビールはアサヒとサッポロに分割されました。
当時のGHQは、ビール業界を製鉄と同様に先端産業と見なしていたのです。
樋口は思います。
「会社を閉じる前に一丁やってみるか」

ところが、会社が絶体絶命の状態にあるというのに、社内には危機感の欠片もありません。
苛立った樋口が、厳しい口調で社員にカミナリを落とすこともしばしば。
ある技術部門の社員は、ものすごい剣幕で樋口に怒鳴られて一気に汗が吹き出し、シャツがびしょ濡れになってしまいます。
仕方なく近くのデパートまで足を運びシャツを買って戻ってくると、今度は会議室に呼び出されます。
2人きりの部屋で、先程とは一転して樋口は穏やかな口調でこう切り出します。

「さっきはすまなかった。俺はお前に期待してるんだ」
当時はまだ「パワハラ」という言葉はありませんでしたが、叱った後には必ずフォローを入れるというのが樋口のやり方でした。

樋口もまた、汗をかくことを厭わない人間でした。
アポ無しで、酒屋や飲食店を片っ端から挨拶訪問します。
一晩で20軒回ることも珍しくなかったそうです。
そして、店主に名刺を渡すや否や、膝におでこがくっつくほど深々と頭を下げます。
相手は腰を抜かすほど驚きますが、次の瞬間には樋口の熱烈なファンになっているのでした。
人を惹き付けて止まない人間的な魅力が、仕事に対する厳しさの裏打ちでもありました。

アサヒの最大の問題は、技術部門が力を持ちすぎていることでした。
技術者たちには、どこよりも旨いビールを造っているという自負がありましたが、そのビールがさっぱり売れないとなると、「客がビールの味を知らないからだ」と客の悪口を言い出す始末。
アサヒを担当していたコンサル会社は、技術部門に対してこんな問いを発しています。
「アサヒは学術の世界に生きるのか?それとも実業の世界に生きるのか?」

厳しい言葉を投げられたことで、技術者たちは顧客の声に耳を傾けることの大切さに目覚めます。
社員の意識が劇的に変化したことこそが、アサヒ復活の最も大きな要因だったと樋口は回想します。

前任の社長、村井勉も意識を変えるべく努力したひとりでした。
部長たちとの飲み会を設け、「お客様がどんなビールを求めているのか一度調べてみようではないか」と訴え続けます。
その努力が実を結び、「1万人試飲キャンペーン」が始まったのですが、予算がないため社員たちが手分けして酒屋の店頭に立ちました。

果たして、客は「コク」を望むのか?
それとも「キレ」を望むのか?

ところが、出た答えは真っ二つに割れます。
そこで、「コクがあるのにキレがある」というキャッチで『新アサヒ生ビール』、通称『マルエフ』の発売が決まります。
これが予想外の大ヒット。
おかげで、86年のアサヒの販売量は12%も伸びました。

ところがこの時、社内ではもうひとつの開発プロジェクトが密かに進行していました。
「コク」よりも「キレ」に重点を置いた新商品、コードネーム『FX』です。
しかし、先行発売した『マルエフ』が成功したことにより、『FX』は微妙な立場に立たされます。
ここで新商品を投入すると、カニバリゼーションといって自社商品同士の共食いが起きる可能性があります。
当然、営業部門は追加投入に大反対。

議論は大揉めに揉めますが、樋口は87年3月から関東地域限定で発売することを決定してしまいます。
これが日本産業史に残る『スーパードライ』誕生の瞬間でした。

いざ発売してみると、『スーパードライ』は飛ぶように売れました。
酒屋の訪問によりマーケットの反応に敏感だった樋口は、2カ月後には販売を全国に拡大することを決断します。
それまでの新製品初年度販売記録は、86年にサントリーが記録した『モルツ』の184万箱でしたが、『スーパードライ』はこれを大幅に上回る1,350万箱を売り切ってしまいます。

間髪を入れず、思いきった設備投資にも打って出ました。
それまでのアサヒの設備投資額は、10年間で約40億円。
ところが、樋口は就任後の5年間でなんと4,138億円もの大金を注ぎ込みます。

あまりに急激な投資拡大により問題も起こりました。
名古屋工場建設の際、それまで生産設備を受注していたIHIや日立造船が、納期に対応できないと言ってきたのです。
すると樋口は、キリンと同じ三菱系の三菱重工に工事を発注してしまいます。
常識に囚われないダイナミックな発想は樋口ならではのものですが、光には必ず影が伴います。
この時の無理な資金集めがその後の行き過ぎた財テクに繋がり、アサヒは財務体質の悪化に長く悩まされることになるのでした。

ところで、スーパードライが出現する以前のビール業界のシェアはどうだったのでしょう。

初めての方へ研修を探す講師紹介よくある質問会社案内お知らせお問い合わせサイトのご利用について個人情報保護方針

© FiveStars Academy Co., Ltd. All right reserved.