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5☆s 講師ブログ

「ありがとう」の反対語(1)

薪を背負って読書する銅像でお馴染みの二宮金次郎。
でも、何をした人なのかは意外に知られていません。
実は600以上の農村を復興した歴史上の人物です。

江戸時代後期、地震や噴火、更には洪水といった自然災害により多くの藩が財政難に陥っていました。
不作が続き、日本中の農村が疲弊していきます。

文政6年(1823年)、小田原藩士の二宮金次郎は、藩の分家筋にあたる桜町領(現在の栃木県真岡市)の復興を命じられ現地に赴きます。
金次郎に与えられた期間は10年。
この地では耕作を放棄して逃げ出す農民が後を絶たず、農業を諦めて博打に走る村人も大勢いました。
人口も田畑の耕地面積も、全盛期の1/3にまで減少するほどの衰退ぶり。

赴任した金次郎が最初にしたことは、一軒一軒を訪ねて村人の生活状況をつぶさに観察することでした。
その時、家族構成だけでなく性格まで調べ上げたのは、一人ひとりを十分に把握した上で全員が納得するような道筋を示そうとしたからです。

金次郎の言葉に、「家畜は『豆』という字の書いてある紙は食べないが、本当の豆なら食べる」というのがあります。
具体論を伴わない理想論は幻想にすぎません。
金次郎の教えは「報徳思想」と呼ばれるものですが、それは以下の3つの柱によって構成されています。

①勤労
②分度(ぶんど)
③推譲(すいじょう)

①の「勤労」とは文字通り一生懸命働くこと。
それも命じられて働くのではなく、自主的に働くものでなければなりません。
金次郎は自主性を持たせるため、リーダーを選ぶ際には村人全員による選挙を行いました。
また、「芋こじ」といって、村の問題を話し合いで解決する仕組みも作りました。

②の「分度」とは、無理をせずに身の丈に合った暮らしをすることです。
ただし、農民たちだけに節約を強要したわけではありません。
当時の桜町領は4千俵の領地でしたが、実態に合わせて2千俵に修正します。
さらには、向こう10年間は年間千俵の年貢でよいということも決めました。
つまり、領主にも「分度」を適用し、少ない収入の中で遣り繰りするよう命じたのです。

節約すれば必ず余剰が生じます。
これを他人のために使うことが③の「推譲」です。
推譲とは、他人を推薦して自分は譲ること。

金次郎は、生産量を増やすためには村の人口を増やすのが一番と考え、移住者に住居と奨励金を与える政策を打ち出します。
しかし村人たちからは、一生懸命働いて必死の思いで節約して貯めたお金を、なぜ他所者を優遇するために遣うのかという声が上がります。
わからなくもありません。

やがて、村人たちの嫌がらせに耐えきれず離村する移住者が続出します。
金次郎は、困っている人を救えば社会全体が潤うのだと懸命に説得しますが、その理屈を理解できる村人はいませんでした。
実は、金次郎がもっとも苦しめられたのは不作や年貢ではなく、村人たちの反発や非協力的な態度でした。

組織改革を行う際の最大の障害は、予算や時間の制約もさることながら、組織にいる人間が本能的に変化を嫌うことです。
さらには、小田原藩から派遣された役人の妨害行為も悩みの種でした。

金次郎は桜町に赴任するにあたり、小田原の住居を売り払っていました。
そのお金を復興に充てながら、借金がある者には無利息に借り換えさせたり、小さな子供のいる家には米を支給したり、時には家屋の修繕も率先垂範して手伝っていました。
まさに身銭を切って、額に汗して復興に取り組んでいたのです。

こんなに尽くしているのに、なぜ村人たちはわかってくれないのか。
改革者というのは、孤独とも戦わなければなりません。
それでも、協力的な村人が徐々に増えたことで収穫は年々増加していきます。

しかし、小田原藩主・大久保忠真(ただざね)と約束した10年の期限は刻々と迫ってきます。

改革に着手して6年が経った時、金次郎は藩主に状況を報告するため江戸へと向かいます。
ところが、報告を終えた金次郎は桜町領には戻りませんでした。
どうしたら村人にわかって貰えるのか、その答えを探してあちこち彷徨い歩いていたのです。

ある村に差しかかった時のことです。
金次郎は、農民たちが不動尊を熱烈に信仰している様子を目にします。
もしかしたら、不動明王に村人たちとの仲を改善するヒントがあるのではないか。
数日後、金次郎の姿は成田山新勝寺にありました。

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