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5☆s 講師ブログ

犠牲の上に築かれた名声(1)

野口英世と言えばお札にも印刷されるくらいですから、世間ではさぞ偉い科学者と思われていますが、その実像は全く違います。
野口が在籍したロックフェラー大学に留学した、福岡伸一の著書に意外な事実が記載されています。

最初に福岡が不思議に思ったのは、野口に関する記録が大学にほとんど残されていないことでした。
あたかも、かつて野口が在籍していたことを隠すかのように。
その謎は、2004年発行の大学定期刊行広報誌を見つけた時に解き明かされます。
そこでは、野口はこんな風に紹介されていました。

「梅毒、ポリオ、狂犬病、黄熱病と言った野口英世の研究のほとんどは間違いであった」

なんということでしょう!
偉い科学者どころか、まるでペテン師扱いではありませんか。
記事はこう続きます。
「一方、彼はヘヴィー・ドリンカーとして、またプレイボーイとして名を残した」

残念ながら、この記述は紛れもない事実です。
アメリカでは、野口のことを偉大な科学者だと思っている人は、ひとりもいないと言っても過言ではありません。

彼が病原菌として大々的に発表したもののほとんどは、完全に間違いでした。
STAP細胞など、足元にも及ばないほどの大スキャンダル。
野口が最初にスポットライトを浴びた梅毒の研究について言うならば、後に正しいことが証明されたのは、主要な3つの論文のうち「進行麻痺」に関するものだけです。

次に手掛けた狂犬病では、研究があまりに不十分なため時期尚早だと周りが反対するのを押し切って強引に発表してしまいます。
もっとも、細菌よりもずっと小さな「ウイルス」というものが存在するなんて、誰ひとり気づいていない時代のことですから、野口だけを悪者にするのは酷かもしれません。

しかし、自分の研究を客観視することができず、ただひたすら名声だけを追い求める自己顕示欲は、科学者にはあるまじきものと言わざるを得ません。
蚊が媒介する黄熱病の研究でも、調査隊員から現地医師の黄熱病患者の判定に関して疑問の声が上がりますが、野口は耳を貸そうともしませんでした。
そして、1ヶ月後には黄熱病の病原体を発見したと、意気揚々とボスのサイモン・フレクスナーに報告してしまうのです。

しかし、野口が見つけた病原体は黄熱病のものではなく、よく似た症状を呈するワイル病の病原体でした。
実は、そのことには本人もうすうす気づいていた節があります。
というのは、黄熱病は人間以外には感染しないことがわかっているのに、野口はモルモットに感染させて実験をしていたからです。
しかも、病状を抑えることに成功したのは、まさにワイル抗体を用いた実験でした。

科学者でなくたって、当然ワイル病の病原体である可能性を疑いますよね。
ところが、1919年の発表では、ワイル抗体のことには一切触れませんでした。
これでは、確信犯を疑われてもしようがないでしょう。

その後アフリカで黄熱病が流行しますが、当然のことながら「野口ワクチン」は全く効きません。
野口の発表から7年後の1926年、マックス・タイラーらによって、ついに野口の間違いが白日の下に晒されます。

タイラーは、野口が発見したという黄熱病の病原体が、ワイル病の病原体と同一であることを科学的に証明してしまったのです。
ここに至り、ロックフェラー財団も野口ワクチンの使用中止を決定せざるを得なくなります。

その翌年、窮地に立たされた野口は、自身の研究が正しいことを証明するためにアフリカへと向かいます。
出発に先立ち、自らが開発した野口ワクチンの接種を受けるのですが、それが全く意味のない行為であることは、誰よりも本人が一番よくわかっていたはず。

まさに、死を覚悟した悲壮な旅立ちでした。
案の定ガーナ入国の4カ月後、野口は黄熱病で倒れます。

臨終の言葉は「これで終わり」
しかし、その後に謎めいた言葉が続きます。
「そうであってほしい」

これは一体どういう意味でしょう。
もしかしたら、苦しみから解放されたい思いから、心の底では死を望んでいたのではないでしょうか。
それにしても、なぜ野口はこんなにも間違い続けたのでしょうか。
途中で、誰かが止めることはできなかったのでしょうか。

野口は、福島県猪苗代町の貧しい農家に生まれました。
荷運び、行商、近所の使い走りなどで、やっと生計を立てる極貧の暮らしが続きます。
しかも、1歳半のときに誤って囲炉裏に転げ落ちたのですが、その時負った火傷の影響で左手の指が癒着して動かなくなってしまいます。
その左手を嘲笑された野口少年は、「俺は裸一貫で必ず偉くなる」と固く心に誓ったのでした。

猛勉強の末21歳で医師免許を取得するのですが、それは当時の日本の医学界が抱えていた「医師不足」という深刻な問題と関係があります。
明治30年(1906年)に医師法が制定されるまでは、高等教育機関による専門教育制度が整備されておらず、数学などは九九とそろばんさえできればクリアできる状況だったのです。
もし、生まれるのがあと10年遅ければ、野口英世の名が医学界に登場することはなかったでしょう。
寧ろ、その方がよかったとも言えるのですが。

免許は取得できても、野口には開業するだけの資金がありません。
やむ無く北里柴三郎の伝染病研究所に入るのですが、大学を出ていないため図書係として雑用に追われる日々。
それでも、アメリカの近代医学の父と言われたサイモン・フレクスナーが来日した際には、必死の売り込みを試みます。

あまりの迫力に気圧されたフレクスナーが思わず口にした、「応援する」という社交辞令を真に受けて何とか資金を工面して単身渡米を果たします。
この思い込みの激しい青年の突然の訪問にフレクスナーはひどく当惑しますが、それでも他に行くあてのない24歳の若者を不憫に思い、個人的に雇い入れることを約束するのでした。

渡米に関する裏事情は後述するとして、世間を見返してやりたいという強烈な野心と、脇目も振らずにひたすら名声を追い求める類い稀な自己顕示欲が、200本以上もの論文を書かせるエネルギー源でした。
でも、野口には致命的な欠点がありました。

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