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5☆s 講師ブログ

神は無私の心に宿る(1)

億万長者になったベンチャー企業の社長が、メディアで盛んにもて囃されています。
まるで稼いだ金額が、そのまま人間の価値を示しているかのような大騒ぎ。
そもそも日本人というのは、昔から富める者は尊いと考える民族だったのでしょうか。
歴史学者の磯田道史は、その著書『無私の日本人』で、欲がなく自分を犠牲にしてでも、清貧の暮らしに生きた江戸後期の人々を紹介しています。

大田垣蓮月。
この尼僧の造る陶器『蓮月焼』は、安価なことも手伝って幕末の京都で大人気を博し、造る片端から売れていきました。
人気の理由は、急須や茶碗に釘で彫りつけた自詠の和歌。
次々と注文が舞い込み、蓮月は頼まれれば頼まれただけ身を粉にして造ります。

しかし、一人で造れる数には限りがあるため、やがて人気にあやかった贋物屋が何軒か店を開くことになります。
現代なら間違いなく訴訟の対象ですが、蓮月は自分の贋物で生活できる人がいることはいいことだと気にも留めません。
でも、贋物師たちが困ったのは気品のある和歌と、美しい筆跡。
こればかりは簡単に真似できるものではありません。

困り果てた贋物師たちは、とんでもない行動に出ます。
連れ立って蓮月の元を訪れて、「何とかしてもらえませぬか」とお願いをしたのです。
あろうことか、贋物を造っている者が、本物を造っている者に善処を要求したのです。
これほど筋違いの話は、後にも先にも聞いたことがありません。

ところが、蓮月の対応は予想だにしないものでした。
厚かましい申し入れを咎めるどころか、なんと「遠慮は要りません。精を出してどんどん製してくだされ」と贋物造りを認めてしまったのです。
それどころか「歌は私のほうで書き付けますから、器をなんぼでも持ってきてくだされ」と言い放ちます。

驚く贋物師たちに、蓮月はさらにこう続けたのでした。
「私の急須も差し上げましょう。写しの見本になさったのちはお売り下さい。たまには真物もないと模造は売れぬでしょうから」
お人好しというには度が過ぎていますよね。

それだけではありません。
この時代の歌人にとっては、歌集を出版することが最大のステータス。
しかも、これほど人気があるのだから必ず売れるはずと、一儲けを企んだ書林が『蓮月歌集』の出版を持ちかけます。
ところが、名声に全く関心のない蓮月は、それだけはやめてほしいと願い出ます。
なぜ断るのかわからない書林が、すでに版木も作ってしまったからと図々しい反論をすると、なんと蓮月は版木の損失分は負担するからと言い出す始末。

それでも首を縦に振らない強欲な書林を一喝したのが、蓮月の唯一の弟子であり、後に文人画の最高峰と言われた富岡鉄斎でした。
鉄斎に関する「人格高く、品性は皎潔(こうけつ)」という評価は、蓮月の弟子時代に培われたものに違いありません。

蓮月が最も嫌ったのが喧騒。
来客が多くなると、すぐに居を変えます。
生涯で30回以上引っ越しをしたという証言もあるほど。
贅沢を一切しない蓮月は、家財道具もほとんど持っていませんでした。
茶碗もひとつしかなく、客が来ると大きな葉っぱに飯を盛って食べたといいます。
家財道具で重たいのはろくろと鍋釜、それに小さな文机だけなので引っ越しも簡単でした。

そんな蓮月にとって唯一の楽しみは、「与える」こと。
来客があると、急須や和歌を書き付けた短冊を、ただでどんどん与えてしまいます。
喧騒の原因は、お宝目当ての来客でした。
困っている人を無視することができない蓮月は、清水寺に参詣に出掛けた折りには、路上で寒さに震えている者たちに次から次と着物を脱いで与え、とうとう下着だけになって、鼻水を垂らしながら庵に帰ったのでした。

蓮月焼の儲けは一体どこにいってしまったのでしょう。
その謎は、嘉永3年(1850年)の飢饉の際に解き明かされます。

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