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5☆s 講師ブログ

世間的には「偉人」でも(2)

森鴎外は、絶対に自分の誤りを認めなかったため多くの犠牲者を出したという点で、野口英世よりも悪質です。

明治の日本陸軍は、脚気に悩まされていました。
脚気は、今でこそヴィタミンB1の欠乏により起こることが広く知られていますが、当時は原因不明の難病として兵士たちに恐れられていました。

来日したドイツ人医師のベルツは、細菌が原因ではないかと主張します。
ベルツが、後の東大医学部となる東京医学校で指導していたこともあり、この「脚気細菌説」はエリート集団である東京帝国大学医学部出身者を中心に、長く信じられることになります。
思えばこれが不幸の始まりでした。

現在の東大医学部を史上最年少の19歳で卒業した天才森鴎外は、本名を森林太郎(もりりんたろう)といい、陸軍軍医として活躍する医学界の超エリートでもありました。
森も、海外で学んだ最先端の医学知識をもとに、脚気の原因は細菌であると主張したひとりです。

しかし、海軍の軍医総監高木兼寛の意見は違っていました。
薩摩藩の下級武士出身のこの男は、イギリス海軍では脚気の症例が見られないことから、白米中心の食事という栄養の偏りが原因ではないかと考えます。
現に、白米を食べないヨーロッパには脚気の患者はいなかったのです。

1883年(明治16年)、海軍で事件が起こります。
軍艦「龍驤(りゅうじょう)」において376名の乗組員のうち169名が脚気を発症し、うち25名が死亡したため軍艦が航行不能となったのです。
海軍にとっても、脚気の原因解明は喫緊の課題となりました。

その2年後、軍艦「筑波」が同じ航路を航行すると聞きつけた高木は、壮大な疫学実験を試みます。
艦内の食事を、白米中心の日本食ではなくパンと肉中心の洋食に切り替えたのです。
結果は、乗組員333人のうち脚気を発症した者はゼロ。
麦を摂取することで脚気は防げるということを、高木は見事に証明してみせたのです。

これを受け、海軍は1885年から麦飯やパンの採用に踏み切ります。

一方、メンツを潰された形になった東京帝国大学医学部出身者たちの怒りは頂点に達します。
特に森は、高木のことを「西洋かぶれ」と罵倒し、さらにはその人格まで徹底的に攻撃します。
この時高木は一切反論しませんでした。
なぜなら、小説を書くほど弁の立つ論客にディベートを挑んでも、勝ち目などないことを知っていたからです。

これ以降、高木は日本の医学界の表舞台から姿を消すことになりますが、実は彼の論文は海外の研究者たちから高く評価されていました。
当時のオランダ領ジャカルタで、「ベリベリ」と呼ばれる脚気によく似た風土病が発生していましたが、オランダ人医師が高木の研究を基に玄米や豆が効果があることを発見し、見事治療に成功していたのです。
さらに研究を発展させたこの医師は、後にノーベル賞を受賞しています。

ところが、わざわざジャカルタに調査員まで派遣した陸軍の「臨時脚気病調査会」は、現地からの調査報告を徹底的に無視します。
調査員の派遣は、ドイツ医学界の権威であるコッホのアドバイスだったにも関わらず。

なぜでしょうか?
その理由は、調査会の初代会長が森林太郎だったからです。
東大医学部閥のプライドに懸けて、「脚気細菌説」以外の説を認めることは絶対にできない相談でした。

そんな中、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発します。
この戦争で、陸軍では3万4,783人が脚気を発症し、うち3,944人が死亡したと記録に残されています。
ちなみに戦闘による死者はたったの450名ですから、その9倍近い兵士が戦わずして命を落としたことになります。

一方、海軍での脚気発症者は34名。
うち亡くなったのはわずかに1名です。
結果は誰の目にも明らかでしたが、森は白米中心の日本食が世界最高の食事であるという主張に徹底的に固執します。

その後の日露戦争では、さらなる悲劇が陸軍を襲うことになります。
なんと25万人以上が脚気を発症し、犠牲者は日清戦争の7倍の2万7,468人。
日露戦争での戦死者がおよそ5万5千人ですから、脚気による死者がその半数を占める計算になります。
片や、海軍の脚気の犠牲者はわずか3名。

まさに帝国陸軍の兵士にとって最大の敵は中国やロシアなどではなく、森林太郎と東大医学部閥に他ならなかったわけです。

ところが、引責辞任させられた陸軍軍医総監の後釜に座ったのは、驚くべきことに森林太郎その人でした。
暴走はなおも続きます。
1910年に、同じ東京帝国大学でも農学部出身の鈴木梅太郎が、「オリザニン」という脚気を予防する物質を発見しますが、プライドの高い医学部閥は農学部の学者の研究など歯牙にもかけません。

これにより鈴木の論文の提出が大幅に遅れてしまいますが、鈴木よりもわずか半年前に同様の物質を見つけて「ヴィタミン」と命名していた、ポーランド人の生化学者フンクがノーベル賞に輝くことになります。
もし日本の医学界に森林太郎がいなかったら、日本初のノーベル賞受賞者は鈴木梅太郎だったかもしれません。

陸軍が、ようやく非を認める形で麦飯の採用に踏み切るのは、1922年(大正11年)に森が亡くなった後のことです。

つまり、森林太郎の日本の医学界への最大の貢献は、「死ぬ」ことだったのです。
彼が「死ぬ」ことで、日本の医学界はようやく「脚気細菌説」の呪縛から解放されたのです。

事実が最も重視されるはずの科学の世界で、学閥のプライドが事実に勝っていたとは驚くべきことですが、このことは二度と繰り返してはならない教訓として深く胸に刻む必要があるでしょう。

森鴎外の小説を読んで救われたという人が世の中に何人いるのか私は知りませんが、森によって命を落とした人の数が、東日本大震災より多いことだけは確かです。

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