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5☆s 講師ブログ

不遜な態度のミュージシャン

かつて、これほどまでに不遜な態度のミュージシャンがいたでしょうか。
北国の街にしては暑過ぎる真夏の昼下がり。
ふらりと入った馴染みのジャズ喫茶で、壁いっぱいに映し出される8ミリフィルムに目が釘付けになりました。
マスターが撮影してきたという、モントルー・ジャズフェスティバル。

まず、ニールス・ヘニング・オルステッド・ペデルセンの指運に度肝を抜かれます。
生まれて初めて、ギターよりも速くウッドベースを弾く光景を目にしました。
ジャズって本当に凄い!

画面が切り替わると、今度はサングラスをかけた一癖も二癖もありそうな黒人が登場します。
次の瞬間でした。
彼のテナーが火を吹くや否や、会場は水を打ったように静まり返ったのです。
圧倒的なのです、何もかも。

ハタチそこそこの生意気盛りの私も含めて、会場にいた全ての聴衆が轟音と共になぎ倒され、粉々に砕け散った残骸が再び集まっては、新しい教祖の足許にひれ伏します。
しかも、アドリブを吹き終えたその男は、悠然と両手を上着のポケットに突っ込んだまま、思いっきり顎を突き出して会場を“睥睨”してみせたのです。

私の耳には、ドスの効いた男の声がはっきりと聞こえていました。
「どうだ、お前ら!聴いたか、オレ様の演奏を!」
この時、誰の心にもひとつの確信が生まれました。
コルトレーンの後継者は、この男アーチー・シェップしかいないと。

65年11月、不遜な男の不遜な行動は、あの「帝王」マイルスをも怒らせます。
『ESP』の収録後すぐに外科手術を受けたマイルスは、長いリハビリを経て「バンガード」のステージに復帰するのですが、駆け付けた大勢の客は休憩中に楽屋から漏れてくる二人の男の口論を耳にします。

「飛び入りで吹いてよいか?」

マイルスがOKするはずありません。
やがて、口論は終わったように見えました。
ところが、お馴染みの『フォア』で次のセットが始まり、ウェイン・ショーターのテナーソロが終わった時のことです。
暗がりから、テナー・サックスを吹きながらアーチー・シェップが現れたではありませんか。

それに気づいたマイルスは、黙ってステージを降りてしまいます。
そして、二度と戻っては来ませんでした。
「帝王」さえも畏れない男、アーチー・シェップ。

まさに不遜の極みです。

個人的な見解ですが、1950年代後半、正確に言うとマイルスがコルトレーンを加えたクインテットを結成した55年以降、モダン・ジャズは急速な進化を遂げたように思います。
時期的には、公民権運動など人種差別反対の盛り上がりとぴったり重なります。

当時の黒人ミュージシャンは、マイルスも含め激しい人種差別を経験しましたが、白人はレコードを購入してくれる上客だったため、差別に対しては頑なに沈黙を貫いていました。
ところが、アーチー・シェップはマルコムXを讃えるなど、人種差別反対の旗色を鮮明にしたという点で、際立ってユニークな存在と言えます。
もしかしたら、あの聴衆を睥睨する行動は、白人に対する優位性のアピールだったのかもしれません。

フリー・ジャズに身を投じるなど様々な変遷を経た後、21世紀に入ると晩年を迎えたピアノのマル・ウォルドロンとのデュオで、人生の年輪を感じさせる“枯れた”アルバムをリリースします。
『追憶~レフト・アローン』。

かつて、マルがアルト・サックスのジャッキー・マクリーンと共演した、あの名盤と同名を冠したアルバムです。
マルは、言わずと知れたビリー・ホリデイの伴奏者。
白人にリンチされ、木に吊るされた黒人の死体をモチーフにした『奇妙な果実』で、一躍有名になったビリー・ホリデイ。
『レフト・アローン』は、ビリーに先立たれ、ひとり残された哀愁をテーマにしたマルの名曲です。

以下はマルの回想。
「『レフト・アローン』を作曲したのは、ニューヨークからロスに向かう飛行機でのことだ。ビリーが一枚の紙を目の前の差し出したんだ。それが『私の心を満たす愛はどこにあるのだろう・・・』と書かれたこの曲の歌詞だった。
その時私は何気なく受け取ったんだが、目を通した私は深く心を打たれた。あまりに哀しい女性の物語が書かれていたからだ。私がビリーのために書いた曲はこれしかない」

でも、ビリー・ホリデイは、生涯この曲をレコーディングすることはありませんでした。
マルは「彼女ならどんな風に歌うだろう」と考えながら、スタジオのピアノに向かったといいます。

ところが、満を持して60年にリリースした『レフト・アローン』は、期待に反して全く売れずやがて廃盤に。
でも、その後到来した幻の名盤ブームで、今度は一転してベスト・セラーになります。
それにしても、アーチー・シェップはなぜこの曲をチョイスしたのでしょう。
私には、シェップの枯れた演奏の中に、黒人としてなお枯れることのない、自由への熱い想いが燻り続けているような気がしてなりません。

ところで、この北国のジャズ喫茶のマスターが、生涯の伴侶と出会った時のエピソードが、birdtakiこと瀧口孝志編著の『ジャズ喫茶が熱かった日々』に描かれています。
70年代のジャズ喫茶は、ある意味「特殊な場所」でした。
暗闇に近い空間にはタバコの煙が充満し、ジャズを究めようとする若者たちが、押し寄せる濁流に抗いながらもミュージシャンの繰り出す一音一音の意味を読み解こうと、腕組みして聴き入っていました。

まさに、ジャズの修行僧たちが瞑想に耽る厳粛な道場。
僧たちはコーヒー一杯で2時間も3時間も粘り、中にはノートを取っている者もいました。
モダン・ジャズは、楽しむというよりどちらかというと哲学の対象だったのです。

もちろん会話はご法度。
というより、大音量のため会話自体が不可能でした。
だから、店員が飲み物の注文を受ける時は、唇の動きから読み取るしかありません。
もっとも、そんな芸当ができたのは、コーヒー以外の注文をしてはいけないという暗黙のルールがあったからではありますが。
店内には常に張り詰めた空気が漂い、マスターにとっては毎日が客との真剣勝負。

そんなある日のことです。
厳格な規律が支配する、由緒正しいジャズ喫茶で働けることを何よりも誇りに思っていた店員のY君が、やっとのことで聞き取れたOL客の質問をマスターに伝えます。
「ここで弁当を開いていいですか?」

マスターは一瞬耳を疑いましたが、すぐに頭に血が逆流していくのを感じます。
「この規律あるジャズ喫茶で弁当だと?一体どういう神経してるんだ!」

彼はこれまでの人生で、女性に対して怒ったり命令したことは一度もありませんでした。
でも、ここはどうしてもガツンと言わなければなりません。
満員の客がマスターの一挙手一投足を見守っています。
「さすがマスター」と言われるような威厳ある態度で臨まないと、他の客に示しがつきません。

「出て行け!ここをどこだと思ってるんだ!」
そうだ、これでいこう。
いや、待てよ。
あまりに気張り過ぎた言い方ではサマにならないこともある。
ならば少しトーンを落として、渋みを効かせるのはどうだろう。
わずか数秒間のうちに、様々な考えが頭の中を駆け巡ります。

ところが、勇んでその女性客の席に向かったマスターは意外な光景を目にします。
なんということでしょう、すでに彼女は弁当を広げて食べ始めているではありませんか。
しかも、マスターと目が合うとニッコリ笑ってペコリと頭を下げるのでした。

その時マスターの口からは、無意識のうちに思いもよらぬ言葉が漏れ出ていました。
「昆布茶でも持ってきましょうか?」

この一言で、Y君は店を辞めてしまいます。
それからというもの、店内に平気でおにぎりを持ち込む客が急増し、マスターの権威は地に落ちてしまったのでした。

でも、なんだかホッコリする話ではありますよね。
どうやら、アメリカと違ってこの店に差別は存在していなかったようです。

マスターは言います。
「ジャズ喫茶はいつも時代と現実社会の隙間に存在し、世間を眺めているのである。

たまに世間から足を踏み外し少し休んでいくのが、つまりお客さんである」

あなたも、日常生活に疲れを感じた時は、ジャズ喫茶という「異空間」で一息入れてみてはどうですか。
店の数は減りましたが、昔と違って音量も控え目になり随分と敷居が低くなっていますよ。

そう言えば寺山修司は、『書を捨てよ、町へ出よう』の中でこんなことを言っていました。
「本来、ジャズは『聴く音楽』ではなく、『体験する音楽』なのだ」

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