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5☆s 講師ブログ

「切れ者」津田永忠(1)

「切れ者」というのは、周囲の人間から出世を妬まれたり、足を引っ張られたりすることがあります。
サラリーマンの話ではありません。
江戸時代の岡山藩の話です。

津田永忠は、日本三名園のひとつである後楽園の築庭の際に活躍した人物ですが、そのように紹介されるのは永忠の本意ではないでしょう。
永忠が目指したものはただひとつ。
農民を飢餓から救うことでした。

岡山はもともと水害の多い地域で、2018年の西日本豪雨により271人に及ぶ死者・行方不明者を出したことは記憶に新しいところです。
承応三年(1654年)、後に名君と謳われた岡山藩の池田光政もまた、大洪水に悩まされていました。
流された民家は2万軒を超え、死者は数知れず。

この時光政は、これは天災ではなく自らの不徳が招いた人災であると考え、備蓄していたすべての米を放出し、粥の炊き出しを行って農民の救済にあたります。
それが一段落すると、今度は村役人の横暴をなくすため、村庄屋を入札で推薦させるなど藩政の大改革に着手したのでした。
この理論的な後ろ盾を担ったのが、儒学を修めた熊沢蕃山(ばんざん)。

しかし、農民を大切にする政治を行うことによって、相対的に地位が低下した藩士たちから不満の声が上がります。
さらには、光政が鳥取城主の頃から仕えてきた古参の仕置家老たちは蕃山の台頭に危機感を覚えました。
その家老たちが仕掛けた様々な裏工作によって、権力争いに敗れた蕃山は備前を去ることとなります。
いつの世も似たようなものですね。

しかし、岡山藩は人材に恵まれていました。
熊沢蕃山に代わって光政のブレーンを務めたのは、少年の頃から光政の側児小姓(そばこごしょう)に取り立てられていた津田永忠。

永忠は25歳の若さで大横目に抜擢されます。
大横目とは藩内の風紀を取り締まる仕事で、後に大目付と呼ばれた役職。
しかも、光政が評定所での合議体制を敷いたために、そのメンバーとして評定に参加することも求められました。

年は若くても永忠の剛直さは際立っていました。
とにかく腹の据わっているこの男は、出世を考えて「空気を読む」ことを決してしません。
並み居る古参の仕置家老を前にしても臆することなく正論を堂々と主張するため、「家老に対するリスペクトが足りない」と古狸たちは反感を持ち始めます。

一計を案じた古狸たちは、若き大横目に無理難題の訴訟案件を次々と持ち込みます。
頭を抱える永忠。

保身を最優先に考える者たちの悪知恵を侮ってはいけません。

しかし、さすがは「切れ者」。
緻密な論理展開で難題の訴訟を鮮やかに裁いてみせました。

光政は大喜びしますが、同時に心配の種も生まれました。
それは、やがて息子の綱政が藩主となった時、果たしてこの「切れ者」を使いこなせるだろうかという懸念です。
もしかしたら、永忠は綱政にとって危険な存在になるかもしれません。

寛文八年(1668年)、大横目の役を解かれ、儒学を教える手習所を作る学校奉行に任命されますが、これは光政が将来を見据えた上での左遷人事でした。
当の永忠はというと、学問を通じて将来の岡山藩を担う人材を育てることは天職であると考え、喜んで殿の命に従います。

人材教育は岡山藩の一大事業となり、3年後には手習所の数は123カ所にまで増えます。
とりわけ光政が重視した、閑谷(しずたに)の手習所は永忠が自ら手掛けたもので、後に「閑谷学校」として長州藩の「明倫館」、水戸藩の「弘道館」と並ぶ日本三大学府のひとつに称されるようになります。

また永忠は、保科正之率いる会津藩の「社倉米」制度を岡山藩でも採用しようと奔走しました。
この制度により農民は高利貸しではなく、藩から直接資金を借りられるようになりました。
これは、農民に対する実質的な減税効果をもたらしました。
さらには、備蓄分を利息米として積み立てることによって、現在の財形貯蓄のような資産運用効果も享受できたのです。
手習所の食事もこれで賄うことができました。

この「社倉米」による蓄財があったからこそ、後の後楽園築庭が実現できたわけです。
ちなみに、岡山藩の儒学者・湯浅常山は保科正之、水戸光圀、池田光政を「三賢侯」と呼んだそうです。
しかし、永忠が活躍すればするほど、光政の不安は募る一方。

やがて、綱政に藩主の座を譲る時がやって来ました。
光政は、永忠を綱政から遠ざけるために、手習所の経営に専念するという理由を無理やりこじつけて、草深い閑谷に移住するように命じます。
当時の閑谷は、赴任を拒否する役人もいたほどの人里離れた草深い奥地。
「切れ者」故に隠居させられた永忠は、この時まだ34歳でした。

しかし、無能な者たちによる衆愚政治は、間もなく行き詰まります。
綱政が藩主となった後、立て続けに大洪水が起こり岡山藩は未曽有の大飢饉に襲われます。
閑谷の手習所に隠居していた永忠は、居ても立ってもいられず家老に宛てて意見書をしたためます。
それは手習所を閉鎖し、手習所のために蓄えた米をすべて飢えた人々の炊き出しのために放出するという提案でした。

この申し出の背景には、人材教育は父光政の「道楽」に過ぎないと考える綱政の手により、各地の手習所が次々に閉鎖されていたことも少なからず影響しています。
そんな綱政の「道楽」は庭造り。
だから後楽園を造ったのです。
名君は「人」を造り、息子のバカ殿はその遺産で「庭」を造る。
現代にも通用しそうな教訓ですね。

さて、岡山藩の農村はますます荒廃し、藩の財政はいよいよ逼迫します。
財政破綻の瀬戸際に追い詰められた綱政は、もはや「切れ者」に頼る他なくなっていました。

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