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5☆s 講師ブログ

“18のガキ”

私が“ジャズ耳”を持ち合わせていないからでしょうか。
マイルス・デイヴィスのアルバム『‘フォア’・アンド・モア』を聴いていると、テナー・サックスのジョージ・コールマンのアドリブが、どれも似たり寄ったりのパターンに聞こえてしようがありません。
音階を上げては下がり、その途中でこねくり回す、この繰り返しのように思えるのです。

ところが、この頃のジョージに対するジャズ評論家たちの評価は、おしなべて好意的。

「思いの外、良くやっている」というものばかりです。
「思いの外」という但し書きがつくのは、この時マイルスがテナーに熱望していたウェイン・ショーターは、アート・ブレイキー(ドラムス)のジャズ・メッセンジャーズにいたため参加できず、やむなく代役のような形で起用されていたのがジョージだったからです。
でも、このメンバーのうち、トランペットをマイルスからフレディー・ハバードに代えただけの構成、すなわちハービー・ハンコック(ピアノ)、ロン・カーター(ベース)、トニー・ウィリアムス(ドラムス)という同じリズム・セクションで吹き込んだハービー・ハンコックの代表作『処女航海』では、ジョージ・コールマンはしっかりと脇役の仕事を全うしています。

なぜこんなにも違うのでしょうか。
その謎を解く鍵は、トニー・ウィリアムスというドラマーが握っているのではないかと思うのです。
というのは、トニーの刻むテンポが、『処女航海』に比べて圧倒的に速いのです。

各駅停車と新幹線くらいの違いがあります。

モダン・ジャズに目覚めて間もない頃のこと、『マイルス・イン・ベルリン』のレコードに針を落とした時の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。
人間業とは思えないほどの、超高速シンバル・レガートに度肝を抜かれました。

まさに、「天才」と呼ぶに相応しい演奏ですが、その天才の運命の扉が大きく開かれたのは1962年の冬。
ジャッキー・マクリーン(アルト・サックス)が、ボストンの「コノリーズ」というジャズクラブを訪れた時でした。
マクリーンにとってこの出会いはよほど印象的だったようで、翌年の『ワン・ステップ・ビヨンド』のライナーノーツに、その時の様子を自らの手で詳しく書き記しています。

「コノリーズ」に入ると、一人の少年が荷物運びを申し出てきます。
てっきり、リハーサルを聴きに来たジャズファンだと思ったマクリーンは、礼を言ってこの日のメンバーを尋ねました。
「ベースは誰だい?」
「ジョン・ネヴスです」
「じゃあ、ピアノは?」
「レイ・サンティーツィです」
「ドラムスは?」
「僕です!トニー・ウィリアムスといいます。あなたに会えてうれしいです、ジャッキー」
驚いて年齢を聞くと、天才は満面の笑みで「17」と答えるのでした。

あまりの若さに一抹の不安を覚えるマクリーンでしたが、演奏が始まるや否やその不安はいっぺんに吹き飛びます。
マクリーンはその足でトニーの母親に会い行き、この天才をニューヨークに連れて帰る承諾まで取りつけてしまいます。
しかし、問題もありました。
未成年者がジャズ・クラブに出演するには、その都度親の同意を得る必要があったのです。
そこで、母親から委任状を託されたマクリーンが、いちいち役所に出向いて手続きする役目を引き受けます。
面倒なことではありましたが、天才のためなら苦労を厭いません。

『ワン・ステップ・ビヨンド』は、フリー・ジャズに傾倒し始めた頃のマクリーンの意欲作ですが、このアルバムのおかげでツー・ステップもスリー・ステップもビヨンド(先)に行くことができたのは、トニーの方でした。
発売前のテープを聴いたマイルスが、わざわざツアー先のカリフォルニアからトニーの自宅に誘いの電話を架けてきたのです。

後にマイルスは、自叙伝Ⅱの中でトニーをこう評しています。

「ドラマーの話になったら、トニー・ウィリアムスしかいないと、これだけは間違いなく言える。
彼のような奴は、後にも先にも一人もいない。
本当に、ただただすごかった」

マクリーンにとって、自分が若い頃に引き立ててもらった恩人のマイルスを前にして、トニーを引き留めるという選択肢はありませんでした。

若き天才は、その翌週にはリハーサルなしでいきなりマイルスとコンサートをこなし、翌日には『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』のレコーディング。
そして、「誰か、いいピアニストはいないか?」とマイルスから聞かれたトニーが、かつて「コノリーズ」で聴いたうち、最もモダンな演奏をしていたハービー・ハンコックの名前を挙げたことで、ついにロン・カーターも含めた若きリズム・セクションが完成します。
今度はロンが親代わりとなり、嫌な顔一つせず年に何十回も役所に出向きます。

この3人は特別な3人でした。
彼らは、マイルスやジョージのソロが終わり、3人のリズム・セクションだけのパートになると、彼らにしか分からないやり方でテンポを変えたり、あるいはリズムを外したりと、ありとあらゆる実験を試みました。
確かに『‘フォア’・アンド・モア』を注意深く聴くと、マイルスのバックの時とそうでない時では、3人のリラックス度合いがまるで違うことに気がつきます。

そんなある日、メンバーの演奏にほとんど干渉しないはずのマイルスからこんなことを言われます。
「どうしてオレのバックでも、お前たち3人がやってるように演奏しない?もっと自由にやれ!」
ついにお墨付きを得たのです。
この日を境に、彼らの演奏はそれまでの「ビクビクもの」から、伸び伸びと自由なスタイルに変わっていきました。
しかし、この試みに馴染めなかったのがジョージ・コールマンだったと、トニーは小川隆夫のインタヴューで打ち明けています。
もともと、レイ・チャールズやB・B・キングらとプレイしていたR&B系のミュージシャンにとって、あまりに荷が重すぎたのでしょう。

その後サム・リヴァースを挟み、テナー・サックスに待望のウェイン・ショーターを加えた時点で、マイルスは60年代における黄金期を迎えるのですが、その幕開けを告げたアルバムこそ『マイルス・イン・ベルリン』でした。
この天才ドラマーを、ブルー・ノートのプロデューサー、アルフレッド・ライオンが放っておくはずがありません。
トニーの初リーダー・アルバムの話が持ち上がりますが、こんなチャンスをもらうと普通のミュージシャンなら精一杯期待に応えようとするもの。

素行が悪いことで有名だったフレディー・ハバードでさえ、初のリーダー・アルバムには『オープン・セサミ(開けゴマ)』と名付けています。
これから、ジャズ・ミュージシャンとしての道を切り開いていこうという殊勝な心がけとともに、アルフレッド・ライオンへの感謝の気持ちが伝わってくるようです。

ところが、トニーの『ライフ・タイム』ときたら、あらゆる面で常識破り。
収録曲全てがオリジナルのフリーっぽい曲で構成され、ピアノ・レスにしてみたり、前半と後半でメンバーを入れ替えてみたりと、かなり実験色の強い作品がズラリと並んでいます。
極め付きは、最後の収録曲『バーブズ・ソングズ・トゥ・ザ・ウィザード』。
なんと、ハービー・ハンコックとロン・カーターのデュオになっているではありませんか。

初のリーダー・アルバムに、本人が参加しない曲を収めるなんて・・・。
大胆にもほどがあろうというものです。
およそ“18のガキ”がやることではありません。

こういう人間こそ、真の意味での「天才」というのでしょう。
演奏だけでなく、思考のレヴェルにおいても、まさに常人には及びもつかない男でした。

91年にマイルスが亡くなると、まるでその後を追うかのように、その6年後に51歳の若さでこの世を去ります。
胆嚢手術後の心臓発作という死因もまた、常人には全く予想できないものでした。

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