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5☆s 講師ブログ

ブルーノート(2)

マイルスとブレイキー、そしてシルヴァーの試みは遂に54年2月に結実します。
今も語り継がれる歴史的名演、『バードランドの夜』です。

ブレイキーとシルヴァーの他は、ベースにカーリー・ラッセル、アルト・サックスには売り出し中のルー・ドナルドソン。
MCはもちろん、身長120cmちょっとの「バードランド」専属の名物司会者ピー・ウィー・マーケット。

そして、マイルスの代わりにトランペットを手に登場したのは、そのマーケットに甲高い声で「ニュー・トランペット・センセーション!」と、最大限の賛辞をもって紹介されたクリフォード・ブラウン。
この茶目っ気たっぷりの司会者は、わざとミュージシャンの名前を間違っては、「チップをくれたらちゃんと紹介するよ」と小銭をせびることでも有名でした。
憎めない男です。

クリフォード・ブラウンの実子は母親から聞いた話として、クリフォードが裏でチップをはずんでいたのだろうと解説しています。
しかし、チップがどうこうというレベルを超えて、この夜のクリフォードの演奏は紛れもなく「センセーション!」でした。
そして、5人が繰り広げたビ・バップからの離脱を予感させる白熱の演奏は、やがてハード・バップと称される流れとなって形を整えられていきます。

その後、ケニー・ドーハム(トランペット)、ハンク・モブレー(テナー・サックス)、ダグ・ワトキンス(ベース)、アート・テイラー(ドラムス)を従えた「ホレス・シルヴァー・クインテット」がリリースしたアルバムは売れに売れ、倒産寸前だったブルーノートの救世主となります。
後に、ブルーノートに埋もれていた数々の録音テープを掘り出したプロデューサーのマイケル・カスクーナによれば、この頃のブルーノートはライオンの採算度外視経営によって資金繰りが極端に悪化しており、身売りを考えざるを得ないような状況にあったそうです。
しかし、幸か不幸かアトランティックの申し出た買収額があまりに低すぎたため、ライオンはギリギリのところで思い留まったのです。

1955年になると、ブレイキーの元に奇しくも同じく「ブルーノート」を名乗るフィラデルフィアのジャズクラブから出演依頼が舞い込みます。
しかし、困ったことにブレイキーが持ってきた仕事のため、「ホレス・シルヴァー・クインテット」を名乗ることはできません。
苦肉の策として採用されたブレイキーの案は、リーダー名なしの「ジャズ・メッセンジャーズ」という名前で出演することでした。
ところが翌年になると、ドーハムの後釜に据えたドナルド・バード(トランペット)を含めたメンバー全員を引き連れて、シルヴァーが独立してしまいます。

残されたのはブレイキーただひとり。
理由は宗教でした。
ブハイナという宗教名まで持つ敬虔な回教徒のブレイキーに対し、シルヴァーを始めとする他のメンバーは別の新興宗教を信仰していたのです。
そもそもブレイキーが40年代半ばに結成した元祖メッセンジャーズは、17人編成のメンバーの大半が回教徒で、全員がターバンを巻いたイスラム・ファッションでステージに登場していたそうです。
どうやら、「メッセンジャーズ」というグループ名には、「伝道師」という意味も含まれていたようです。

ところが、「災い転じて福となす」の諺通り、2年後にアレンジャー兼務のベニー・ゴルソン(テナーサックス)を迎えると、「アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ」は黄金期を迎え、やがてあの名曲『モーニン』の誕生に繋がっていくのでした。
アメリカのみならず日本でも大ヒットしたこの曲は、油井正一が「そば屋の出前持ちが口笛を吹いて通った」と記したほどの名曲中の名曲。
これもすべてアイク・ケベックが紹介した、才能溢れる人脈あってこその成功です。

でも、人脈紹介という点においてもっと貢献度が高かったのは、テナー・サックス奏者ギル・メレでしょう。
なぜなら、録音技師として後にRVGの愛称で親しまれる、検眼技師ルディ・ヴァン・ゲルダーを紹介したからです。
モダン・ジャズなど聴いたことがないというこのアマチュア・エンジニアは、ギル・メレのあまりに熱心な口説きの前に首を縦に振らざるを得ませんでした。
もちろん、ブレイキーらの「バードランド」のライブも、この天才職人の手によってブルーノート1500番台の初期を飾る名盤として世に出ました。

RVGの、一切の妥協を許さない取組姿勢については、マイケル・カスクーナの紹介でスタジオを訪れた行方均の著書に詳しく述べられています。
マイク一本に至るまで機材のレーベルはすべて剥がされた上、両手には常に白手袋。
さらに行方は、マイケルから驚くべきアドバイスを受けます。

「彼の背後に立つ時は音をたてるな」

これではまるで『ゴルゴ13』ではありませんか!
時々テレビで「拘りの職人」などというのが、さも偉そうに紹介されていますが、「拘り」というのは「拘泥する」ことを意味し、決して誉め言葉に使うものではありません。
そもそも、職人が自分の中に内的なルールを持つのは至極当然のことで、それを持たない職人を「プロ」とは呼びません。
ところが、超一流のプロともなると、「拘り」などというレベルをはるかに超えた内的ルールを持っています。
あえて言うなら、「病的な完璧主義者」。

ライオンもRVGもそうでした。

RVGはこう言います。
「ヴァン・ゲルダー・サウンドとは、実はアルフレッド・ライオン・サウンドだ。私はエンジニアとして、アルフレッドの望む音を何とか実現しようとしていただけだ」

40年代から60年代にかけてのジャズは、スイングからビ・バップ、そしてハード・バップ、モードと目まぐるしく形を変えていきました。
そのモダン・ジャズが最も激動する時代に、歴史の生き証人として立ち会った2人の男、アルフレッド・ライオンとルディ・ヴァン・ゲルダー。
いや、もしかしたら事実は全く逆で、この2人が触媒の役目を果たしてくれたおかげで、モダン・ジャズが劇的な進化を遂げることができたのかもしれません。

多くのメジャー・レーベルが、レコード・セールスだけを目的に、名の通ったミュージシャンたちによる退屈なアルバムを数多くリリースする中、ライオンは全く無名の新人たちをリーダーに据えて、極めてクオリティの高いアルバムを世に問い続けました。
ライオンとRVGがいなかったら、もしかしたらモダン・ジャズは衰退していたかもしれません。
ブルーノートの「妥協のない作品を送り出す」という強い信念こそ、このレーベルに「外れ」が一枚も見当たらない理由です。

しかし、この採算度外視の経営は、会社経営に安息の時をもたらすことはありませんでした。
1966年、ライオンは遂にブルーノートをリバティ・レコードに売却します。
それでも、ライオンのスピリットは現在も脈々と受け継がれ、ブルーノートの名に恥じない名盤が世に送り出され続けているのです。

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