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5☆s 講師ブログ

明日死ぬかのように

Jazz and freedom go hand in hand.
ジャズと自由は手をつないで行く

セロニアス・モンクがそう表現したように、1950年代のアメリカでは
公民権運動に代表される人種差別反対運動が盛り上がるのと機を一にして、
それまで上流社会のダンスミュージックに甘んじていたジャズが、
バップという新しい演奏手法を手に入れ、黒人の魂の叫びへと変貌を遂げました。

しかし、60年代に入るとジャズは明らかに行き過ぎてしまいます。

旋律やコード進行といった音楽の決まりごとをすべて無視した、あの忌々しいフリー・ジャズが始まったのです。

フリー・ジャズは、例えて言うなら安部公房の小説のようなものです。
翌日必ずお腹を壊します。

一方でその反動か、正統な音楽教育を受けた、爽やか系のウェスト・コースト・ジャズも台頭します。

ジャズシーンは百花繚乱と言うよりも、“カオス”と表現する方が適切なほどの混迷期を迎えたのでした。

そこに一服の清涼剤のような爽やかな風を吹き込んだのが、ジャズにボサ・ノヴァを取り入れたスタン・ゲッツです。
しかし、穏やかなその演奏とは正反対に彼の一生は激動そのものでした。
この時代の黒人ミュージシャンは押並べて激しい人種差別と貧困の中で育ちますが、
スタン・ゲッツは白人でありながらも人種差別を受けていました。
父親がユダヤ人だったのです。
ウクライナ移民の子としてフィラデルフィアに生まれますが、
印刷工の父親はユダヤ人だという理由でユニオンには入れず、赤貧洗うが如しの生活を送ります。
彼自身はベースをやりたかったのですが、狭いことこの上ない貧しい家にはベースの置き場所などあろうはずもなく、
やむなくテナー・サックスを始めます。

当時のジャズメンは皆不遇でした。
あのデューク・ジューダンでさえ、タクシー運転手のアルバイトで生活費を稼いでいた時代です。

麻薬代に事欠いたゲッツは、拳銃を持っているかのように装いドラッグストアに押し入ります。
逮捕された彼が真っ先に警官に言った言葉は、
「申し訳ないことをした。拘引される前に謝りたいので少し待ってほしい」
そして、後悔のあまり独房で自殺未遂まで図ります。

57年にノーマン・グランツと巡り会ってからは、 ジェリー・マリガンとのセッションなどで名声を挙げます。

59年にJATPの一員としてヨーロッパツアーに出かけますが、
この前科の影響かイギリスでは入国を拒否されてしまいます。
「ヨカラヌ者の入国を拒否するならば、13歳で鉄砲をぶっ放していた不良少年、
ルイ・アームストロングの入国をなぜ認めるのか」
メロディ・メーカー誌の投書欄を飾ったこの一文がイギリス中の拍手喝采を浴びたことからも、
当時のヨーロッパでゲッツがいかに高く評価されていたかがわかります。

ただ、この投書の内容は正確とは言えません。
ルイ・アームストロングが11歳の大晦日のパレードで、空に向けてぶっ放したのは38口径の拳銃でした。
そして、そのことが原因でぶち込まれた少年院で、憧れのコルネットを演奏するチャンスを得たのでした。

この好意的な投書がきっかけというわけではないのでしょうが、
その後アメリカを離れてコペンハーゲンに居を構えます。
そしてその2年後に帰国してみると、ジャズシーンは先述したように、まさに“カオス”の状態にあったのです。
フリー・ジャズの騒音に辟易していたジャズファンは、彼の“ライトバース”を歓迎します。
62年に『ジャズ・サンバ』が大ヒット。
翌年『ゲッツ/ジルベルト』がグラミー賞4部門を独占する頃には、
スタン・ゲッツの名はジャズファン以外にもすっかり知れ渡るところとなっていました。
しかし、その音楽もまた、すっかりジャズ以外の“何か”になってしまっていたのです。

そんな彼の人物評はと言うと、“傲慢”とか“気分屋”といった批判的なものが多いのですが、
彼とラスト・デイト(最後の録音)を共にしたケニー・バロンの回想からは、全く別の顔が浮かび上がってきます。

レコーディング中に突然中止宣言をして帰ってしまった次の日、
申し訳なさそうに電話口で「自分のプレイに戸惑いを覚えたから」と弁明したかと思えば、
また別の日には、演奏中にもかかわらずバロンに近寄り、「まずいプレイをして申し訳ない」と謝罪します。
そして、「一杯やりたい気分なので、しばらく皆で雑談していてくれないか」と言い残して出掛けてしまうのですが、
翌日にはせっせと断酒会に通っているのでした。
ちなみにバロンによれば,彼がダメ出ししたその演奏は実にグレートなもので、
どこが気に入らないのか全くわからなかったそうです。
あまりにも自分に厳しいその姿が、周囲には“傲慢”とか“気分屋”と映ってしまうのでしょう。

自分に厳しい姿勢は死の直前まで貫かれます。
晩年、ガンで余命一年半と宣告されたにも関わらず、ゲッツは精力的にコンサートをこなしました。

「これが見納め、聴き納め」とばかりに多くのファンが詰め掛け、彼の全力プレイに拍手を贈ります。
時にはステージ上で苦悶の表情を浮かべながらも、
いざ演奏となれば一切手を抜かない姿は鬼気迫るものがありました。
あらゆる治療にチャレンジしていた彼の執念が、ロウソクの炎を引き延ばします。
宣告を大幅に超える3年後の1991年6月6日、64才の若さで遂に帰らぬ人となりました。

マハトマ・ガンジーの名言があります。

「明日死ぬかのように生きよ」
まさに、毎回毎回「これが最後」と覚悟してステージに立っていた、ゲッツの生き方そのものではありませんか。
ただし、刹那的に生きよといっているわけではありません。
名言はこう続きます。
「永遠に生きるかのように学べ」

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