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5☆s 講師ブログ

テネシー・プライド

テネシー・ウィスキー『ジャック・ダニエル』の創始者ジャスパー・ニュートン・ダニエルは、1846年テネシー州リンカン郡に生まれますが、生後わずか5カ月で母親を亡くしてしまいます。
10人の子供を抱えて途方にくれた父親は、子育てのために再婚に踏み切ります。

ところが、ダニエルは継母と折り合いが悪く7歳で家出。
近所の家に転がり込むと、その数年後にはダン・コールの食料雑貨店に住み込みとして働き始めました。
店主のコールが蒸留所を所有していたことから、ウィスキーの商売に興味を持ったのがこの世界に足を踏み入れるきっかけとなりました。

ところが、ちょうどその頃から禁酒運動が全米に広がり始め、商売に見切りをつけたコールは兼業していた牧師の仕事に専念することを決めてしまいます。
この時、在庫ウィスキーの処分を買って出たのが当時13歳のダニエル。
馬車にウィスキーを山積みにして、向かった先はアラバマ州の臨時州都だったハンツヴィル。
狙いは州都を占領している北軍の兵士です。
当時、兵士に酒を売ることは禁止されていましたが、結果的に敵からお金を搾り取ることなので州政府も目を瞑っていたようです。

ダニエルが18歳の時に南北戦争は終結しますが、すっかり商売のコツを掴んだダニエルは、知己を得ていた戦争の英雄のひとり、ジョン・メイソン・ヒューズ大佐を仲間に引き入れることに成功します。
ヒューズの屋敷にほど近いリンチバーグに蒸留所を建設したのは、流通の際に便利な鉄道が開通することを聞きつけたからですが、幸運なことに年間を通じて13℃の湧水が得られるケイヴ・スプリングもこの地で見つかりました。

ところで、テネシー州の人々は自分たちのウィスキーを「テネシー・ウィスキー」と呼んで、ケンタッキー州で造られる「バーボン・ウィスキー」と混同されることをひどく嫌います。
なぜ、そんなにこだわるのでしょう。

『ジャック・ダニエル』が、国税庁長官から正式に「テネシー・ウィスキー」と認められたのは1941年のことです。
ダニエルの甥にあたるリーガー・モトロウが、ワシントンD・Cにある国税庁を訪ねて熱心に「チャコール・メロウィング」の説明をしたことが実を結びました。

チャコール・メロウィングとは、蒸留が終わった直後のホワイト・ドッグを熟成樽に移す前に、シュガー・メープル(サトウカエデ)の炭の層を通して濾過する方法です。
炭が雑物を吸着することで、よりメロウ(芳醇)な味わいになると言われています。
メープルの炭焼きは屋根付きの場所で行われるのですが、角材は全て4インチ角、5フィートの長さに揃えられ、しかも6インチの間隔で7フィートの高さに積み上げることと細かく定められています。

焼き上がった炭は高さ12フィートの樽の中に毛布と一緒に重ねられ、上からホワイト・ドッグを一滴ずつしたたらせていくのですが、濾過された原酒が出てくるまでには10日もかかるのだそうです。
炭の寿命は通常6ヶ月といいますから、年に2回は炭焼きを行っている計算になります。

ジャックダニエル社はこの製法を前面に打ち出すことで、高級ウィスキーとしてのイメージをPRしました。
『フォーチュン』誌には、ウィンストン・チャーチルが愛飲しているという記事が掲載されます。

『トゥルー』誌の場合はもっと派手で、フランク・シナトラが「神々の酒」と絶賛しながら、「ジャックダニエル・カントリークラブ」というワッペンのついたブレザー姿で登場します。
もちろんこれは架空の団体。

同時に、ウィスキーの品質をアピールすることも忘れません。
当時、高級ウィスキーの広告といえば高級車の橫でポーズを取ったり、ガウン姿で寛ぐ男性の全面カラー広告が一般的でしたが、ジャックダニエル社は敢えて蒸留所で働く作業着姿の人々を、小さなモノクロ写真で紹介しました。

これは、スコットランド北部にあるロス州のタインという町で、16人の昔気質の職人によって作られていたことから、「タインの16人の男たち」というキャッチコピーを掲げた『グレンモーレンジ』と同じ戦略です。

『ジャック・ダニエル』で使用したオーク樽がその後スコットランドに送られ、『グレンモーレンジ』の熟成に使われているのも何かの縁なのかもしれません。

P&Gのマーケティング責任者を務めたジム・ステンゲルは、この戦略の狙いはブランドに関する「伝説」を語ることだったと分析します。
リンチバーグの人々を通じて伝えたかったのは、独立心を持って自立した人生を送り、本物を大切にして行動することがいかに誇らしいかというメッセージです。
この戦略は大当たりしました。

ハリウッドの脚本家たちは、映画に登場する人物を骨のある人間だと手っ取り早く表現したい時には、その手に『ジャック・ダニエル』のボトルを握らせるのだと口を揃えます。
彼らによれば、愛飲している酒の銘柄は、その人の生き方を表すのだそうです。

ところで、このチャコール・メロウィングという製法は、長年アルフレッド・イートンという人の発案だと言われてきましたが、近年になって1815年頃にケンタッキーの開拓者ビール・ファミリーが行っていたという記録が見つかりました。
そう言えば、『メーカーズ・マーク』もホワイト・ドッグの貯蔵タンクに木炭の粉末を混入させていましたよね。
それでも彼らが、この濾過方法はテネシー州独自のものだと言い張る背景には、テネシー州の人々の強烈なプライドが関係しているようです。

そもそも、テネシーという州名は先住民のチェロキー族に由来するものですが、この大部族と交流があった開拓者と言えばデイヴィ・クロケット。
小坂一也の『モンタナの月』で、「♪テネシー生まれの快男児」と歌われたあの人物です。
彼は、テネシー州選出の下院議員を3期も務めた政治家でもありました。

1830年、テネシー出身の第7代大統領アンドルー・ジャクソンが、先住民を未開の荒野に追い払うことを画策して「強制移住法」を制定します。
クロケットはこの法律に真っ向から反対しましたが、ジャクソンのゴリ押しの前に敗北を喫してしまいます。

族長クーウェスクーウェ、アメリカ名ジョン・ロスに率いられたチェロキー族は、やむなくオクラホマへの過酷な旅に出るのですが、クロケットもまたオクラホマからさらにその先のテキサスへと流れていくのでした。

そのテキサスで独立をかけてメキシコ軍と戦い、あの有名な「アラモ砦」で壮絶な最期を遂げることになるのですが、後にディズニーが『鹿革服の男』という題名で映画化したことにより、デイヴィ・クロケットの名は全米に知れ渡ります。
まさに彼は、「テネシーの誇り」となったのです。

テネシーの人々は、ジャック・ダニエルに英雄デイヴィ・クロケットの面影をダブらせているのではないか、と作家の東理夫は考えています。
数々の苦難に見舞われた波瀾万丈の人生を、強く逞しく生き抜いたジャック・ダニエル。
巨大な口髭を蓄え、鹿革服ならぬ膝丈のフロック・コートと白い大きなツバのハットを常に着用することで、160センチ足らずの小柄な身長をカヴァーしていたダニエル。

今や、世界中で愛飲されるウィスキーとなった『ジャック・ダニエル』ですが、テネシーの人々にとってはアメリカがフロンティア魂に溢れていた頃を思い出させてくれる、特別にメロウな味わいなのかもしれません。

でも、この小さな英雄は、本人が気にも留めなかった些細な爪先の怪我が原因で命を落としてしまいます。
デイヴィ・クロケットのような壮絶な最期ではありませんでしたが、それはアメリカのフロンティア時代がすでに終わっていたことの証だったのかもしれません。

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