株式会社ファイブスターズ アカデミー
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1910年12月のある夕刻。
4人の娘の父親は、法律事務所の仕事を終えて家路に就きます。
もうすぐ5人目が産まれる予定ですが、息子を持つことはもうとっくに諦めていました。
行きつけのクラブでカクテルを楽しみ帰宅すると、玄関に迎えに出てきた執事が微笑みながらこう言います。
「紳士がおひとり、旦那様をお待ちでございます」
こうしてジョン・ハモンドは、ハモンド家の仲間入りをしました。
これは、彼の自叙伝『ジャズ・プロデューサーの半生記』の書き出しの一節。
ハモンド家は執事を雇うほど裕福でしたが、それは父親が金持ちだったからではなく、結婚相手が鉄道王の孫娘だったからです。
「音楽評論家」という肩書きで紹介されることの多いジョン・ハモンドの経歴は、実に多岐に渡ります。
ざっと挙げると、イギリスの音楽誌『メロディー・メーカー』の在米通信員、ラジオ局のディスク・ジョッキー、コロンビア・レコードのプロデューサー、音楽誌編集者、マーキュリー・レコードの副社長、それにニューポート・ジャズ・フェスティバルの実行委員といったところでしょうか。
大学を中退してジャズの世界に飛び込んだハモンドが、音楽界で幅広い交友関係を築くことができたのは、白人であるにも関わらず人種差別を毛嫌いしていたからです。
ある時、ルイ・アームストロングの白人マネージャーのジョニー・コリンズが、酔ってルイに対して差別的な言葉を吐きました。
ハモンドはコリンズを嗜めましたが、怒ったコリンズが殴りかかってきたので、カウンターパンチを一発お見舞いします。
おそらくルイは、黒人の自分を侮辱した白人を、一撃のもとに殴り倒した白人がいたことを生涯忘れなかったでしょう。
ハモンドが発掘したジャズ・ミュージシャンの一人に、テディ・ウィルソンがいます。
ある日、ラジオ中継を聴いていたハモンドは、スピーカーから流れてくる素晴らしいピアノ演奏を耳にします。
後に穐吉敏子(ピアノ)が、「ひとつひとつの音が同じサイズの真珠を並べたような」と形容したあの演奏です。
すぐに放送局に電話を架け、テディ・ウィルソンという名前を聞き出します。
当時、アル・カポネが経営するシカゴのスピークイージー(もぐり酒場)で演奏していたテディを、何とかして世に出したいと考えたハモンドは、早速ピアニストを探していたベニー・カーター(アルト・サックス)に紹介します。
もちろんカーターも、テディがピカイチであることは知っていました。
でも、バンドに参加してくれるかわからないので、誘うのを躊躇しているとのこと。
そこでハモンドは、シカゴまでの旅費を気前よくカーターに渡します。
結果的にこの150ドルが、テディの輝かしいキャリアへの切符となりました。
ベニー・グッドマン(クラリネット)の時は、少しばかり工夫が必要でした。
当時、アメリカのレコード会社と言えばどこもみな破産するか、あるいはその寸前の状態。
レコードをたった1枚録音するだけで、かなりの額の借金を背負ってしまうことも珍しくありませんでした。
特にマイナーなレーベルの経営状況は深刻で、宣伝費やスタジオ使用料、制作費などとあれこれ名目をつけて経費を水増しし、ミュージシャンへの支払を削減することが常態化していました。
中でも悪名高かったのが「リヴァーサイド」。
ヴィレッジ・ヴァンガードで撮影された、ビル・エヴァンス・トリオの有名な写真があります。
トリオの3人が囲んだテーブルの横で、プロデューサーのオリン・キープニュースがノートに注文を書き込んでいます。
なぜ几帳面に記録をつけているかというと、彼らが注文したドリンクや食事の代金を、経費としてギャラから差し引くためです。
しかも、帳簿は二重になっていて、ミュージシャンは実際より高い金額を払わされていました。
当時、この悪習に加担しなかったのはノーマン・グランツだけと言われています。
グランツの場合は、JATPのコンサート収入でレコード事業の赤字を補うことができたからです。
メジャーと言えども経営事情は五十歩百歩。
新しいレコードを作る余裕など、あるはずがありません。
そこで、ハモンドは一計を案じます。
敢えてアメリカではなく、イギリスの「コロンビア・レコード」に売り込みをかけたのです。
結果は大成功。
これに刺激されたアメリカの「コロンビア」が、ベニーのレコーディングを敢行したのは1933年11月のこと。
ところが、その収録スタジオの片隅に、ベニーの共演者として抜擢された一人の女性が佇んでいました。
緊張の面持ちで初の録音に臨むその無名シンガーに、ハモンドが出会ったのもまた偶然でした。
ある日ハモンドは、ブルース・シンガーのモネット・ムーアの歌声を聴くため、133丁目にある「コヴァンズ」を訪れます。
しかし、残念ながらモネットは、ブロードウェイのミュージカルに出演するため不在。
ステージには、ムーアの代わりに17歳のシンガーが立っていました。
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