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5☆s 講師ブログ

話せばわかるは真っ赤なウソ(1)

歴史上語られていることには、しばしばウソが紛れています。
教科書にも掲載された犬養毅の名言、「話せばわかる」もそのひとつ。

犬養毅の孫である犬養道子の話によると、事実はかなり違っているようです。
11歳でこの事件に遭遇した道子は、この伝説について「母の証言うらづけはない」と自身の著書に記しています。
では、犬養毅は一体何と言ったのでしょう。

1932年(昭和7年)5月15日夕刻、首相官邸にピストルの音が響き渡ると同時に、護衛の巡査が崩れ落ちます。
世に言う「五・一五事件」の始まりです。
道子の母親は、かねてより懸念していた軍部の襲撃であることを察知し、庭に下りて逃げるよう義父に勧めます。
しかし犬養の返答は「いいや、逃げぬ」

間もなく2人の海軍少尉と3人の士官候補生が土足のまま部屋に入ってきます。
犬養はたじろぎもせず彼らと対峙します。
突然、ひとりがピストルの引き金を引きました。
しかし不発。

この時犬養は少しも慌てず、「まあ急くな」と議会の野次を抑える時と同じ手つきで暴漢を制したといいます。
それからおもむろに、「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう。ついて来い」と言って、士官たちを日本間に案内しました。
暴漢を家族から遠ざけるためです。

そして、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう」と語りかけたその時です。
別の4人が現れ、「問答無用」と叫びながらピストルを乱射したのです。
これが、事の一部始終を目撃した道子の母親の証言です。

犬養家に長年仕えていた古参の女中テルも、「話せばわかる」という言葉は聞いていないと言います。
テルによると、流れる血の中で犬養の口をついて出た最期の言葉は、「今の若いモンを呼んで来い」でした。
「話せばわかる」ではなかったのです。
「話を聞こう」だったのです。

日本史研究家の保阪正康は、この2つの言葉の間に存在する無限の距離感に対して果てしない絶望を覚えると言います。
なぜなら、言論が暴力に屈服した構図を、戦後になって誰かが「話せばわかる」という、いかにもそれらしい言葉にすり替えて民主主義の美化を図ったのですから。

それにしても、なぜこれほどまでに「話せばわかる」という逸話が、広く世間に流布されてしまったのでしょうか。
それは、犬養毅に纏わるある疑惑と関係があります。

最後の元老西園寺公望の、晩年の私設秘書として政界の情報収集に当たっていた原田熊雄の日記にこんな記述があります。
「噂によると、張学良の倉庫の中から日本の政党の領袖や大官連の署名ある金円の領収書が現はれた中に、犬養総理のものも混つてゐたとかで、張学良から金をもらった一件を難詰しようとした時に、総理は『その話なら、話せば判るからこつちに来い』と言って・・・」

張学良は、「奉天事件」で関東軍により爆殺された張作霖の息子。
満州全土に青天白日旗を翻し、抗日の意思を示した「青年元帥」で、関東軍にとっては天敵とも言うべき人物です。

果たして犬養は、こんな人物から裏金をもらっていたのでしょうか。
原田の耳に入ったということは、政治レベルではかなり上層部に流された噂です。

半藤一利もこの噂を重視して、政治家としての犬養毅に疑問符をつけています。
ところが、この原田の記述が、犬養道子の脳裏に微かに残っていたある遠い記憶を蘇らせることとなります。

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