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5☆s 講師ブログ

悲運のヒバリ

十分な実力があるにもかかわらず、なぜか売れない悲運のジャズ・ミュージシャンは枚挙に暇がありませんが、特にピアニストに多いような気がします。

エルモ・ホープが、やっとのことでブルーノートからデビューを果たしたのは1953年。
幼なじみのバド・パウエルが、デビュー作にして代表作の『ジ・アメイジング・バド・パウエル』を最初に吹き込んだのが1949年8月ですから、あまりにも遅咲きなピアニスト人生でした。
派手さに欠けるスタイルが「没個性」と評価されたのか、世間の注目を集めることもなく、最期はこの時代のお約束の麻薬の過剰摂取で43歳の生涯を閉じました。

その点フィニアス・ニューボーンJrは、天才的な超絶テクニックという、圧倒的な武器を持っていました。
しかし、その凄さを理解できるファンが少なかったため、この天才は葛藤の末、遂には精神に異常をきたしてしまいます。

ナチス政権下のドイツで、ヒトラーのジャズ弾圧政策に抵抗し、ライプチヒの地下クラブで密かに演奏を続けていたユタ・ヒップも、単身渡米してからはうら若き女性ピアニストが、生き馬の目を抜くアメリカで活躍することの困難さを思い知らされます。
「ヒッコリーハウス」での名演以外さしたる注目アルバムもなく、人々の記憶から消え去ってから40年後、洋服の裁縫工場で働いていたユタ・ヒップの衝撃的なインタヴューがジャズ専門誌に掲載されます。
記事の見出しは「ユタ・ヒップは生きていた!」。

しかし、同じ裁縫でも洋服の仕立て屋になるため一度引退したウォルター・デイヴィスJrの場合は、どうしてもテーラーの経営がしたかったという理由なので、このグループに入れるのは適当ではないかもしれません。

運に恵まれなかったピアニストの代表選手と言えば、何といってもソニー・クラークでしょう。
日本では『クール・ストラッティン』を知らないジャズファンはいませんが、アメリカではかなり事情が異なるようです。
ピッツバーグにほど近い小さな炭坑町に生まれたソニーは、ハタチの時に母親を亡くしたため、ピアニストの兄と共に叔母のいる西海岸に移り住みます。

ソニー・クラークはゴリゴリのハード・バッパーというイメージがありますが、意外なことにハード・バップ全盛期の50年代半ばを西海岸で過ごしていたのです。
サンフランシスコやロスで錚々たるミュージシャンと共演しますが、どうしてもウェスト・コースト・ジャズに馴染めず、歌手ダイナ・ワシントンの全米横断ツアーのバック・メンバーとしてニューヨークに出たのをきっかけに、ブルーノートと契約を交わしたのが1957年。
それからわずか1年半の間に、20以上のセッションに起用されたことからも、アルフレッド・ライオンが彼の実力をいかに高く評価していたかがわかります。

ところがこの間、ソニーがクラブに出演することはほとんどありませんでした。
理由は麻薬です。
重度の麻薬常習者と見做されたため、ニューヨーク酒類局が発行するキャバレーカードが支給されなかったのです。
当時はこの許可証がないと、週1回以上ナイトクラブに出演することはできませんでした。
スタジオ録音よりライヴの方が人気のあるニューヨークでは、これは致命的なハンデとなりました。
これが、ソニー・クラークの知名度が今一つ上がらなかった理由です。

ところで、『クール・ストラッティン』というと、ハイヒールの女性の足元をアップにした、あの印象的なアルバム・ジャケットが有名。
でも、あのモデルは一体誰なのでしょうか。
当時、ブルーノートのジャケット・フォトのほとんどは、フランシス・ウルフが手がけていましたが、このアルバムのクレジットはリード・マイルスとなっています。
リード・マイルスは、ブルーノートのジャケット・デザイナー。
そこにはこんな裏話が隠されていました。

ある日アルフレッド・ライオンは、マイルスの所属するジョン・ハーマンセイダーのデザイン・オフィスを訪ねて打ち合わせをしていました。
『クール・ストラッティン』というアルバム・タイトルは決まっていたのですが、デザインのアイデアがなかなか浮かびません。
ちょうど昼食の時間となり、ライオンはマイルスと彼のアシスタントを誘って近くのレストランへ。
すると、マイルスが「ちょっと待ってて」と言って、慌ててカメラを持ってきます。
そして、アシスタントをモデルに街角で撮影したのが、あのジャケット・フォトなのです。

時に「後ろ髪を引かれる」と形容される、2拍目と4拍目にアクセントを置いたタイトル曲のリズムは、情熱が前のめりに迸るハード・バップ全盛期にあっては、かなり異質なものに聞こえます。
でも、日本ではそれが理知的で“クール”と受け止められ、空前のヒットに繋がりました。
当時のジャズ喫茶では、日に何度もこの曲がリクエストされたといいます。
とっさの思いつきで撮った写真が、日本のジャズ史に残るジャケットになったわけですが、これはあくまで日本限定の話。
アメリカでは全くと言っていいほど売れませんでした。

世間に認められない悔しさから、ソニーはますます麻薬にのめり込み、やがてレコーディング・スタジオからも姿を消してしまいます。
しかし、新興のタイム・レーベルで再起を試みたことが実を結び、60年にはハード・バップの全盛期を彷彿とさせる『ソニー・クラーク・トリオ』を引っさげて、颯爽とブルーノートへの復帰を果たしたのでした。

それでも、麻薬を断つことだけはできませんでした。
63年1月、出演中のクラブの楽屋で、麻薬の過剰摂取により心臓麻痺を起こし倒れてしまいます。
リカー・ライセンス(酒類販売許可証)が没収されることを恐れたクラブ側は、死体を近くのアパートに移してから救急車を呼びました。
享年31。

壮絶な最期に思いを馳せながら、改めてこのブルーノート復帰アルバムを聴き直すと、躍動感の中にどことなく悲壮感も漂っているように思えるのは気のせいでしょうか。
61年に、アイク・ケベック(テナー・サックス)らと吹き込んだ『リーピン・アンド・ローピン』が遺作となりますが、不思議なことにそのケベックも、申し合わせたようにソニーと同じ週に肺ガンでこの世を去っています。

『NYC`S NO LARC(ニューヨークからヒバリ去る) 』
ビル・エヴァンス(ピアノ)が多重録音という手の込んだ手法で吹き込んだバラードです。
このタイトルは「SONNY CLARK」のアナグラム。
時流と交わることのなかった孤高のピアニストを、空中高く飛翔するヒバリになぞらえた、エヴァンス渾身のレクイエムです。

そして時は流れ、ソニーの死から23年後の1986年。
『クール・ストラッティン』で共演したアルト・サックス奏者のジャッキー・マクリーンは、異国の地で驚くべき光景を目にすることになります。
第1回マウント・フジ・ジャズ祭で、日本人スタッフから『クール・ストラッティン』の演奏を懇願されたジャッキーは、「なぜこんなマイナーな曲を?」と困惑します。
ところが、気乗りのしないまま最初のフレーズを吹いた瞬間、万を超える聴衆から一斉に大歓声が沸き起こったではありませんか。

ジャッキー以上に驚いたのは、ステージの傍らで見守っていたブルーノートのプロデューサー、マイケル・カスクーナをはじめとするアメリカ人スタッフたち。
マイケルは、その理由をこう語っています。
「誰もクラークを知らなかったから・・・」

どうやら、ニューヨークの悲運のヒバリは、渡り鳥のように人知れず太平洋を越え、アジアの小さな島国にとびきり大きな巣を作っていたようです。

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