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5☆s 講師ブログ

ドリトル先生は切り裂き魔(2)

「ハンテリアン博物館」の収蔵品の中にある、実に奇妙な展示品とは、鶏のトサカに人間の歯を埋め込んだものです。
そうです。
ハンターは移植実験を行っていたのです。

ハンターのチャレンジは移植実験に留まらず、電気による蘇生術や人工受精、さらには腎臓結石や動脈瘤の除去手術といった、現代医学の先駆けといってもよいものばかり。
ハンターを突き動かしていたのは、人の命を救いたいという使命感などではなく、純粋に未知の分野を解き明かしたいという衝動でした。
時として、新しい時代を切り開く原動力は、崇高な志などではなく、狂気にも似た好奇心であったりするものです。

異端児ゆえに伝統や因習に捕らわれることなく、次々と斬新な医療手法を試みるハンターの名声はますます高まり、時の首相ウィリアム・ピットは腫瘍除去手術、『国富論』の著者アダム・スミスは痔の手術を受けるため、ハンターの勤務するセント・ジョージ病院に来院します。
また、若き日の詩人バイロンも彼の診察を受けたといいます。

その功績が認められ、1767年にはなんと王立協会の会員に選ばれたのでした。
猟奇的な「切り裂き魔」が、ついにエリートにまで上りつめた瞬間です。
しかし、ハンターの好奇心は医療を超えてしまいます。
そして、そのことにより彼の人生は暗転してしまうのでした。

ハンターは、頭蓋骨を詳細に観察した結果として、ヒトは猿からアフリカの黒人へと進化し、その後ヨーロッパの白人が誕生したのだと主張し始めたのです。
驚くべきことに、チャールズ・ダーウィンが進化論を発表する70年も前のことです。

ヒトが猿から進化しただとか、アダムとイブが黒人だったという発想が、当時のキリスト教会に受け入れられるはずがありません。
王立協会はこの主張を「異端」と決めつけ、提出された論文を徹底的に無視します。
時代を先取りし過ぎたハンターは、虎の尾を踏んでしまったのです。

やがて、この天才外科医の数奇な運命にも幕が降ろされる日がやってきます。
1793年10月16日、病院の理事会の最中に、同僚との口論により激昂したハンターは、心臓発作を起こしてしまいます。
その遺体は弟子たちの手により解剖されますが、死因はハンターが生前に自己診断した通り「冠動脈疾患」。
やっぱり名医でした。

著名な医師として莫大な収入を得ていたはずのハンターでしたが、意外なことに全財産を博物館の展示品収集につぎ込んでいたため、死後に残されたのは借金だけという悲惨な最期でした。
遺体は人知れず教会の地下納骨堂に埋葬されたのですが、その裏には王立協会の思惑が働いていたことは想像に難くありません。

ところが、物語はここで終わりませんでした。
ハンターの死から3年後、かつてハンター邸に住み込みその薫陶を一身に受けた、一番弟子とも言うべき若手の医師が歴史に残る実験に成功します。
その医師の名はエドワード・ジェンナー。

「牛痘に感染した乳搾りの女は天然痘にかからない」という言い伝えを信じていたジェンナーですが、それを証明する方法が見つからず、悩んだ挙げ句生前のハンターに相談します。
ハンターのアドバイスは、実に簡潔なものでした。

“Why think, Why not try?”(なぜ考える、なぜ実験しない?)

そうは言われても、ジェンナーが人体実験を決意するまでには、3年の逡巡が必要でした。
医学の進歩は、倫理との葛藤の歴史でもあるのですね。
もし、この猟奇的な「切り裂き魔」がいなければ、天然痘ワクチンの開発は大幅に遅れ、人類はもっと多くの犠牲を強いられていたのかもしれません。

数々の先進的な取り組みにより、医学の発展に多大な貢献をしたにも関わらず、進化論を先取りするような主張をしたことで王立協会の怒りを買ってしまい、医学界の闇に葬られた天才外科医ハンター。
しかし、その名誉を回復する時がやってきます。
ダーウィンが『種の起源』を出版してから2年後、突然王立協会はハンターの論文を世に公表します。

それだけではありません。
ハンターの亡骸をウエストミンスター寺院に移し、新しい墓に「近代医学の父」という文字を刻み込んだのです。
ハンターの死から68年後のことでした。
権威が、自らの誤りを認めるまでには、とてつもなく長い時間が必要なのですね。

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