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5☆s 講師ブログ

ブルーノート(1)

「ここは私にとって神聖な場所だ。私の前で麻薬の取引は許さない」

ドイツ生まれの小柄なユダヤ人が、眦(まなじり)を決して雲突くような黒人に対峙します。
見るからに凶暴そうな麻薬の売人が、録音スタジオにまで訪ねた相手はマイルス・デイヴィス。

そして、必死の形相で売人の前に立ちはだかった男こそ、ブルーノートの創業者アルフレッド・ライオンその人です。
マイルスが麻薬に溺れ、仕事にもあぶれていた1952年のことでした。

マイルスがイースト・セントルイスの実家の一室に12日間も閉じこもり、禁断症状との壮絶な戦いに勝利するのはこの一年後。
当時、どん底にあったこの天才トランペッターに、レコーディングの機会を与えてくれたプロデューサーはライオンだけでした。
義理堅いマイルスが、それに恩返しする形で録音したのが58年の『サムシン・エルス』。
CBSコロンビアとの契約があるため、ブルーノートからリーダーアルバムを出すことができなかったマイルスが、キャノンボール・アダレイを表向きのリーダーに仕立て上げてまで世に問うたこのアルバムは、なんとモダン・ジャズ史上最高のセールスを記録したのでした。

1908年、アルフレッド・ライオンはベルリンの裕福な実業家の元に生まれます。
しかし、ジャズの魅力に取り付かれた彼は、どうしても本場のジャズが聞きたくなり、アメリカの会計学校に通うと嘘をついて単身渡米します。
この時、ハタチの若者のポケットに残されていた金はわずかに100ドル。
ブルックリンにアパートを借りて港湾労働者として働き始めますが、外国人労働者に仕事を奪われたと勘違いした同業者たちに釘のついた板で袋叩きにされた上、家賃が払えずアパートを追い出されてホームレスも経験します。
それでもデューク・エリントンなどのレコードを買い集めたというのですから、ジャズへの情熱は尋常ではありません。

一旦はドイツに戻りますが、今度はユダヤ系のライオン家にナチスの黒い影が迫ります。
フランス人の銀行家と再婚した母親を頼ってフランスに渡り、美術品貿易商の社員として南米のチリで2年間働いた後、ついに憧れのニューヨークへと舞い戻ります。
一人のファンとしてジャズを満喫していた38年のクリスマスの前々日、カーネギー・ホールで開かれた「フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スイング」と題されたコンサートを観たことが人生の転機になります。
ミード・ルクス・ルイスやアルバート・アモンズらのブギ・ウギ・ピアノに感銘を受けたライオンは、気づいた時には彼らの楽屋を訪ねていました。
そして、その場でレコーディングの申し出をしてしまったのです。

年明け早々の1月6日、マンハッタンの貸しスタジオで行われたレコーディングはあくまでプライヴェートなもので、レコードを友人たちにプレゼントするためのものでした。
しかし、あまりに出来がよかった上に、二人の伝説のブギ・ウギ・ピアニストの助言も手伝って、ライオンはレコードの発売に踏み切ります。
初版のプレスはわずか50枚。

これがブルーノート誕生の瞬間です。

ブルーノートと言えば、どうしてもビ・バップやハード・バップといったメインストリーム・ジャズを連想してしまいがちですが、意外にもそのルーツはブギ・ウギだったのです。
「楽しかったよ。夢のような時間だった」

そう述懐するライオンですが、レコーディング直後には、予算を大幅に上回るスタジオ代の請求書を突きつけられて青くなります。

そもそもライオンにとって、レコーディングはビジネスではなくパーティーそのものでした。
ブルーノートのレコーディングの特徴は、たくさんの食べ物だけでなく、各ミュージシャンの好みの酒まで用意されることです。
また、この時代にはきわめて珍しいことですが、事前に行われるリハーサルにもギャラが支払われていたそうです。
ライオンがミュージシャンのモチベーションを上げることに心を尽くした理由は、39年に作成されたパンフレットに記されています。

「ブルーノート設立の趣旨は妥協のない作品を世に送り出すこと、その一点にある」

事実ライオンは、ミュージシャンに対してリハーサルの段階からかなり細かなリクエストを出していました。
彼らも、その熱意に全力プレイで応えようとします。
ライオンは、妥協無き作品を世に送り出すために、一切の採算を無視しました。
ジャケットのデザインには途方もないお金をかけます。
ライナーノーツが気に入らなければ何度も書き直しを命じます。

そして、何よりもミュージシャン最優先の姿勢を貫きました。
ブルーノートと唯一専属契約を結んでいたジミー・スミス(オルガン)が、ヴァーヴに移籍する時のことです。
罰が悪そうに移籍話を切り出すスミスに、「ヴァーヴはメジャーだから、これでギャラも上がるし、望んでいたオーケストラとのレコーディングもできるじゃないか」と笑顔で送り出したというのです。
スミスは、「彼の優しさを一生忘れない」と公言して憚りません。
その心意気に打たれたのか、アンディ・ウォーホールが、お気に入りのケニー・バレル(ギター)のジャケット・デザインを申し出たこともありました。

ところが、40年代も半ばに差し掛かると、隆盛を誇っていたスイング・ジャズにも陰りが見え始めます。
その頃のブルーノートに絶大な影響を与えたのは、テナー・サックス奏者のアイク・ケベックでした。
影響というのは演奏というよりも、人脈の紹介という点においてです。
ケベックが紹介した無名の若手は、後に「ジャズの巨人」と呼ばれるミュージシャンばかり。
タッド・ダメロン(ピアノ)、バド・パウエル(ピアノ)、アート・ブレイキー(ドラムス)、ファッツ・ナバロ(トランペット)といった錚々たるメンツの中に、ひときわユニークな演奏をするピアニストがいました。
セロニアス・モンクです。

初めてその演奏を聴いたアート・ブレイキーの感想が、モンクの世界を端的に言い表しています。

 

「セロニアスは斬新だった。
パーカッシヴなタッチは言うに及ばず、ハーモニーはどう考えても不協和音にしか聴こえない。

それが不思議なほど自然に響く。

ただしユニークすぎたので、ほとんど聴衆からもレコード会社からも相手にされなかった」

ところが、ブルーノートが新局面を迎えるのなら、ミュージシャンにも新しい時代を感じさせる人材が必要だと考えたライオンは、前衛的な異端児として世間から見向きもされなかったモンクをレコーディングに起用します。
しかも、47年から48年にかけて4回も・・・。
なんという慧眼!
というか、少しでも商才がある人間ならば絶対にやらないことです。

しかし、もともとピアノを弾いていて、ピアニストのタイプによってドラミングを変えるというスタイルのブレイキーは、この共演から大きな啓示を受けます。
「キック(ベース・ドラム)でアクセントをつけるんじゃなく、シンバルやハイハットも他のドラマーとは違う形でアクセントをつけるために活用してみた」
この努力は、50年代にビ・バップが行き詰まりを迎えた時に報われます。

小川隆夫の分析によれば、ビ・バップのような迫力優先の4ビートではなく、もっと細分化したビートをドラマーが提示して、それにピアノの伴奏を連動させようとしたのがマイルスであり、そのアイデアに応えることができたのがアート・ブレイキーとホレス・シルヴァー(ピアノ)なのだそうです。
同じアパートに住んでいたこの3人は、暇さえあれば新しいサウンドを模索していました。

51年の『ディグ』(プレステージ)のレコーディングの際、ブレイキーはマイルスからにこんなリクエストをされます。
「ハイハットでビートをコントロールし、その他のドラムスでアクセントをつけてほしい」
モンクとの共演がなかったら、応じられない提案でした。
そして遂に、彼らの新しい試みは54年2月に結実します。

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