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5☆s 講師ブログ

風見鶏ガリレオ(2)

望遠鏡の魔力に取り憑かれてからというもの、ガリレオは庇護者である権力者に一層媚びるようになります。

より高い給料を求めてパドヴァ大学の教授の職を辞したガリレオは、トスカナ大公国のメディチ家の庇護を受けることを目論みます。

木星の衛星を発見した時に、真っ先にメディチ家にそれを知らせただけでなく、その星を「メディチ家の星」と命名するほどゴマを擦っていたのはこの布石でした。

さらに、かつて君主コジモⅡ世の家庭教師を務めていたという事実も、彼の背中を押します。
上司に媚び諂うサラリーマンはそこら中にいますが、ガリレオの場合はそんなレベルをはるかに超えていますよね。

それでも、ガリレオはまだ満足できません。

富は手に入れたので、次は名声の番です。

ガリレオは、天体観察で得た結果をローマの学者たちに伝えようと考えました。

アリストテレス以来「月は鏡のように滑らかな球体である」とされてきたのですが、実際には無数のクレーターがあること。
木星には少なくとも4つの衛星があり、さらには金星には満ち欠けが認められることなどです。

1611年、ローマ学院での講演は大成功を収めました。
そして、5名のローマ貴族院からなる名誉あるアカデミーの6人目の会員に選ばれます。

ついにガリレオは、ローマ教皇という究極の庇護者に取り入ることができたのです。
富と名声の頂点に上り詰めたわけです。

ところが、ここに思わぬ落とし穴がありました。

この時発表した天体観察結果のいくつかは、そのまま地動説に繋がるものでした。
この頃になると、例えローマ教皇のお膝元の学者たちであっても、地動説を認めざるを得ない証拠がズラリと揃っていたのですが、科学という世界において実に不思議なことは、真実よりも学者の嫉妬心の方が勝ることです。

講演から4年後、嫉妬する学者たちの陰謀が実を結び、ガリレオはローマに呼び出され審問を受けます。

世に言う「第一次宗教裁判」です。
この時は、ガリレオの庇護者たちもまだ勢力を保持していたのでかろうじて事なきを得ますが、1632年に出版された『天文対話』の場合は事情が違っていました。

この本は三人の人物による対話形式で書かれているのですが、カトリックの立場を代表する人物が他の二人によって嘲笑されるくだりがローマ教皇の逆鱗に触れます。

ちなみに、この書でガリレオが主張したのは海の干満こそ地球自転の証拠だという説ですが、今では月と太陽の引力の影響により引き起こされるという、ケプラー説の方が正しいことは小学生でも知っています。

不幸なことに、この頃になると頼みの綱のトスカナ大公国の勢力は大きく衰退していました。

まさに絶体絶命のピンチ。
卑劣な教皇庁側が用意した数々の捏造証拠の前に、もはやガリレオの死刑は免れないように見えました。

しかし、有力者達による懸命な助命嘆願と、自説を完全に放棄して二度と邪説を口にしないと、ガリレオがなりふり構わず神に誓ったことで奇跡が起きます。

フィレンツェ郊外での蟄居という、極めて軽い判決が下されたのです。

こんな時、プライドを持たない風見鶏は有利です。

そんなガリレオが、「それでも地球は回っている」などと言うはずがないではありませんか。

ところが、罪人の汚名を着せられたガリレオに、さらなる不幸が追い討ちをかけます。

最愛の娘の死に続き、ドイツから訪ねてきた義理の妹とその四人の子供が、到着後まもなくペストに罹患しこの世を去ります。
さらには、自身の病気がさらに悪化。

ここに至り、失うものがなくなったガリレオは突如豹変します。

天啓に導かれるように、長い間封印していた「落体の法則」の発表を決意するのです。
ひたすら富と名声を追い求めた男が、自身の使命に目覚めた瞬間でした。

ガリレオはこの時、すでに齢70を超えていました。

人は、余命幾ばくも無い瀬戸際に至り、初めて自分がこの世に生を受けたことの真の意味を知るのでしょうか。

不朽の名著『新科学対話』は、ローマ教皇の怒りを恐れるあまり、ドイツでもイタリアでも出版されませんでしたが、1638年にようやく新教国オランダで日の目を見ます。

しかし、この本がアルプス山脈を越えてガリレオの手許に届けられても、残念ながら彼はそれを目にすることができませんでした。
長年に渡り太陽を観測した影響で、彼の両眼は完全に失明していたのです。

それでも、ガリレオは満足だったのではないでしょうか。

神の摂理は宗教によって決められるのではなく、自然という書物の中に書かれているという持論を、誰の目も気にせず堂々と主張できたわけですから。

振り返ってみると、天文学の分野におけるガリレオの観察結果というのは、概して凡庸なものばかりと言わざるを得ません。

月面観察にしても、ガリレオ以前にもっと詳細な研究をした学者がいました。
木星の衛星発見に関しても、ガリレオが最初とする説には異を唱える者さえいます。
天体観察について、一般の人々の興味を引きつけたことは事実ですが、彼の研究そのものは理論天文学には全く貢献していないのです。

ただ、「落体の法則」だけは違います。
今も燦然と輝く金字塔として、科学史に刻まれています。

この法則が世に出ていなければ、ニュートンの万有引力の発見もなかったのではないかと言われています。
ただし、その後光があまりに強すぎて、ガリレオの人物像を必要以上に脚色してしまったことも事実です。

もし、ガリレオが「落体の法則」を発表していなかったら、後世の彼の評価は一体どうなっていたでしょう。

ひたすら富と名声を追い求めた挙げ句、自分に不利と見るやあっさり信念を捨ててしまうような風見鶏が、果たして歴史に名を残すことができたでしょうか。

その後、ローマ教皇パウロ2世がガリレオ裁判の誤りを認めたのは、彼の死から350年後の1992年。

つい最近のことですよね。
アポロ11号は、それより20年以上も前に月に降り立っていたというのに・・・。

裏を返せば、ヴァチカン内では21世紀を迎える直前まで、天動説が大手を振ってまかり通っていたということになります。
しかもこの時、地動説とともにローマ教皇に認められたのは、なんとダーウィンの進化論。
ということは、この時まで人類の始まりは天地創造の神が土から創ったアダムであると信じられていたわけです。

私はそこに、宗教というものが持つ底知れぬ不気味さを感じてしまうのです。

ガリレオが自分の信念を捨てるほど恐れていたのは同業者の嫉妬などではなく、やっぱりこれだったのかもしれません。

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