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5☆s 講師ブログ

風見鶏ガリレオ(1)

「それでも地球は回っている」
ローマで宗教裁判にかけられた時、身の危険を顧みず地動説の正しさを主張したガリレオ・ガリレイ。

まさに信念の人。

長い間そう思っていましたが、実はこの話は真っ赤なウソでした。

ついでに言えば、ピサの斜塔から物体を落下させたというあの有名な実験も弟子たちの創作です。

ガリレオは信念の人どころか、それとは真逆の完全なる「風見鶏」。
時の権威に媚び諂い、庇護者のご機嫌を取ることに汲々とした一生を送った男、それがガリレオの真の姿です。

彼の最大の業績と言えば、何と言っても「落体の法則」。
その発見のきっかけは、ギリシャの大学者アリストテレスの説に疑問を抱いたことでした。

アリストテレスの説とは、物体が落下するのは重さがあるからで、重い物体ほど早く落下するというものです。

実は、この説の欠陥については早くから指摘されていました。

それは、重い物体と軽い物体を連結させたら、重い物体と軽い物体の中間の速度で落下するのか、それともその物体はさらに重くなっているのでより速い速度で落下するのかという疑問です。

答えが二つに分かれてしまう事自体、この説の矛盾を示しています。

この時ガリレオの頭に閃いたのは、空気抵抗のない真空中であれば、あらゆる物体は同じ速度で落下するのではないかというアイデアでした。

このように、例え実現不可能でもまずは理想的な状態を頭の中で作り出し、そこで得られた仮説について、今度は実現可能な実験を積み重ねて検証していくという、まさに現代の物理学の手法を編み出したのがガリレオなのです。

そしてこの手法を基に、ついに「自由落下する物体の落下距離は、それに要した時間の二乗に比例する」という「落体の法則」を発見したのです。

しかしガリレオは、この世紀の大発見を発表せずに、なぜか長い間封印してしまいます。

その話の前に、今少し彼の人生の歩みを追ってみましょう。

音楽家だった父親の影響か、権力や権威に対する反骨精神が旺盛で、「喧嘩家ガリレイ」と異名をとったガリレオは、一生金には困らない医者を目指してピサ大学の医学部に入学します。

しかし、当時のイタリアは教授とのコネがない限り、奨学金を受けられない状況にありました。

早々に中退を余儀なくされたガリレオは、富裕層の子女の家庭教師をして生計を立てます。
落体の研究に着手したのは、ちょうどその頃でした。

やがてピサ大学で数学教授の職を得ますが、給料は神学教授の1/ 10。

自然科学が、宗教の下僕だった時代の話です。
父親の急逝により、母親や妹たちの扶養義務も背負わざるを得なかったガリレオにとって、教授よりも実入りのよい家庭教師のアルバイトは絶対に止められないものでした。
ピサ大学の教授時代に、アリストテレスの力学体系の誤りを次々に明らかにしたのですが、それが同僚教授の反感を買い、わずか3年であっさりクビにされてしまいます。

この若い頃の経済的困窮が、ガリレオの性格をすっかり変えてしまったのかもしれません。

急進的な科学者にも寛容だったパドヴァ大学に移っても、ピサ大学の苦い経験からか、必要以上に周囲の顔色を窺うようになっていました。

一方で、彼の不誠実な人間性を物語るエピソードは山ほどあります。

特にそれが顕著なのが、天才的な理論天文学者ケプラーとの交遊録です。
ケプラーが『宇宙の神秘』を著したのが25歳。
その書を贈られた32歳のガリレオは、実はケプラーと同じく地動説の信奉者であることを手紙で告白します。

にも関わらず、パドヴァ大学の講義では、数十年に渡り天動説を教えています。

それだけではありません。
地動説は誤りであると、攻撃までしているのです。

すでにこの頃になると、地動説に対する迫害などすっかり影を潜めていました。

ローマ・カトリック教会は、この説を教皇庁に持ち込まない限り黙認していたのです。
事実、ケプラーの著書に対しても、教会は何のリアクションも取っていません。
ガリレオが恐れていたのは、周囲の教授たちの目だったのです。
つまり、周りに嫌われないことが最優先事項だったわけです。

そんなガリレオに対してケプラーは、自らの信念に基づいて勇気をもって自説を発表すべきだと励まします。

ところが、これが気に入らなかったようで、その後12年間に渡りガリレオはケプラーにただの一通も手紙を書いていません。
そして、13年目に手紙を出したきっかけもまた、ガリレオの人間性をよく物語るものでした。

オランダで望遠鏡なるものが発明されたと聞いたガリレオは、同じく倍率9倍の望遠鏡を作りベネチア共和国の議会に進呈します。

サン・マルコ広場での供覧会は大成功を収めました。
その後20倍まで改良して、月や木星の衛星を観察した結果を小冊子にまとめると、これが天文学とは縁のない一般の人々の間で大評判を呼びます。

ところがこの望遠鏡、視界が極端に狭いため非常に見えづらく、実際に望遠鏡を覗いた天文学者の多くは、小冊子に記載されている観察記録はデタラメではないかと疑っていました。

同業者が、実力以上に世間からチヤホヤされるのは確かに愉快なことではありませんが、とりわけ学者の嫉妬というのは想像を絶するものがあります。

苦境に陥ったガリレオは、すでに神聖ローマ帝国の数学者となっていたケプラーに助けを求めたのですが、これが13年目の手紙です。

この身勝手な依頼に対して、ケプラーは実に寛大な返事を書きます。

「望遠鏡なるものはまだ見ていないが、ガリレオのような優れた人物が言うことは真実に違いない」

何という広い心でしょう。

この弁護のおかげで、ガリレオはなんとか窮地を脱することができました。

しかし、そこは不誠実この上ないガリレオのこと、感謝の手紙など書くはずもありません。

その上ケプラーが、「望遠鏡をぜひ一台送ってほしい」という手紙を何度送っても梨の礫。
怒ったケプラーがガリレオをなじると、「すぐに送る」と慌ててその場を取り繕うのですが、その約束も実行されることはありませんでした。
私たちが学校で習ったガリレオ像とは、ずいぶんかけ離れていると思いませんか?

やがてケプラーは、別ルートからこの望遠鏡を仕入れると、すぐにその欠点を見抜いてしまいます。

そして、凸レンズと凹レンズではなく、凸レンズを二つ組み合わせるという改良を施すのですが、これが現在も使われているケプラー望遠鏡です。
この事実をもってしても、どちらが本当の天才だったか分かろうというものです。

今も科学史に名を残す二人の偉人の交わりが実に奇妙なものとなってしまったのは、ガリレオのエキセントリックな性格によるものと言わざるを得ません。

しかし、そんなガリレオでも自分の使命に目覚める時がやってくるのですが、それはまだまだ先の話でした。

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