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5☆s 講師ブログ

内的な死

男性の平均寿命は80.2歳、女性は86.6歳だそうです。

その長い人生の中で、ピークというのは一体何歳頃なのでしょうか?

判断力などの総合的な能力は、経験が豊富なほど有利なため、中高年の方が高いように思います。

しかし、情熱とかエネルギーといったものは、若いときのそれには到底及びません。

それからもう一つ、若いときにピークを迎えるのが、「感性」というものではないかと私は思うのです。
長編の落語を聴いていて、ふとそんなことを考えました。

怪談『真景累ヶ淵』。
全編97章からなる超大作です。

六代目三遊亭圓生の噺を、8話目の『聖天山』までYou Tubeで聴きました。

8時間以上かかりましたが、あっという間に引き込まれ、時の経つのをすっかり忘れてしまいました。

怪談噺は圓生に限ります。

最近は、林家正雀なども果敢に挑戦していますが、どうしても違和感があります。

志ん朝もそうですが、滑舌が良すぎるのです。

やっぱり「落語」になっているのです。

圓生のそれは、全くと言っていいほど笑いの要素がありません。

落語を聴くというよりも、なにか得体の知れない不気味な民話を聞かされているような気がするのです。

しかも、語られるテーマは幽霊の怖さではありません。

普通の人間が欲に駆られて、ついには他人を手に掛けてしまうという人間心理の移ろいを、
恐ろしいほどリアルに描き上げます。

この『真景累ケ淵』の作者は、言わずと知れた三遊亭圓朝。

江戸末期から明治にかけて活躍した噺家です。
いや、活躍したというより、現在の落語の礎を築いた人物と言うべきでしょう。

特に怪談噺は圓朝の独壇場で、『怪談牡丹燈籠』の高座を聴いた岡本綺堂が、

「だんだんに一種の妖気を感じ」始め、
やがて「この話の舞台となっている根津あたりの暗い小さい古家のなかに坐って、
自分ひとりで怪談を聴かされているよう」な気分になったと記しています。
まさに六代目圓生は、その妖気を受け継いだ噺家と言えましょう。

三遊亭圓朝は、若くして名人の域に達したことを妬まれ、あろうことか自分の師匠である二代目三遊亭圓生からも嫌がらせを受けました。
中入り前に高座に上がった師匠が、なんとその日トリを努める圓朝の演目を先にかけてしまうのです。

追い詰められた圓朝が、先に噺をかけられないために、活路を見出したのが新作落語でした。
しかし、新作落語と言っても、現代のそれとはそもそもモノが違います。

人情噺の定番『文七元結』や『芝浜』、即興で創作した三題噺『鰍沢』、
そしてイタリア歌劇『靴直しのクリスピノ』を翻案したとされる『死神』。
全て現代の古典落語の名作と呼ばれるものばかりです。

談志によれば、圓朝は落語の題材を求めて、シェイクスピアなども読んでいたそうです。

現にモーパッサンの原作を落語に改作したこともあります。

もはや「旺盛な」と言う範疇を超えて、「鬼気迫る」創作意欲を感じるではありませんか。

かつて志の輔が、安部公房の作品に挑んだことがありますが、出来はともかく立派な試みだと言えましょう。
彼の新作落語には、映画化や舞台化されているものさえあります。

後世に残る作品のことを、人は「芸術」と呼びます。

現代の新作落語の中で、後世まで語り継がれる噺は果たしていくつあるでしょうか?

ところで、圓朝は大変な人情家でもありました。

小勇という放蕩者の弟子がいましたが、やがて圓朝の師匠である二代目圓生に媚びへつらうようになり、
挙げ句の果ては圓生の弟子となってしまいます。

そして、ゴマスリの甲斐あって、圓太と名を改め真打ちに昇進します。

落語家の世界も、サラリーマンの世界と似たり寄ったりですね。

真打ちになったとは言え、その芸の出来が気になる圓朝は客を装いこっそり寄席に出かけますが、
これは当時タブーとされている行為でした。

高座の圓太がこれに気づき、「寄席を荒らしに来た」と騒ぎ出したからもう大変。

もともと圓朝人気を嫉妬していた師匠の圓生は、この時とばかりに土下座を強要した上、詫証文まで書かせます。

これがきっかけで師弟の間は、絶縁状態となってしまいました。

ところがその後病に倒れ、生活にも困るようになった師匠の圓生を支え続けた弟子は、なんと圓朝だけでした。

人情噺を地でいくような話ですね。

一方、大恩のある圓太の方はというと、見舞いにさえ来なかったというのですから、これもまたサラリーマン社会そっくりではありませんか。

ところで、圓朝がこの超大作『真景累ケ淵』を創作したのは、なんと二十一歳のとき。

翌年には『怪談牡丹燈籠』を完成させます。

芸術家の感性というのは、この辺りがピークなのかもしれません。

詩人の谷川俊太郎が、詩集『二十億光年の孤独』を発表したのが二十歳。

翌年が『六十二のソネット』。

松本隆が、細野晴臣や大瀧詠一、鈴木茂とともに、伝説のバンド「はっぴいえんど」で『風を集めて』という名作を書いたのが二十一歳の時。

これが、「詩人」としての松本のピークでした。

その後の作品は駄作ばかり。
しかし、その代わりに「詩人」ではなく、
松田聖子らの歌謡曲の「作詞家」として商業的な成功を収めます。

「詩人」は形容詞ですが、「作詞家」はれっきとした名詞です。

しかも、経済的な富をもたらしてくれる可能性のある職業名詞です。

では、「芸術家」というのは職業名詞なのでしょうか?

難しい問題です。

若いときは純粋な探求心が創作の原動力となりますが、
やがて“生活”というしがらみが生じてくると作品の質は変わるものです。

変質をもたらす要因は、生活だけではありません。

文芸評論家の秋山駿はこう言います。

「人は二十歳前後で『内的な死』を経験する」

秋山の言う「内的な死」とは、例え一瞬でも「今ここで死んでも悔いはない」と思う経験だそうです。
確かに芸術には、ビジネスと違って“命の遣り取り”という側面があります。

後世に残る作品というのはほとんど、作者が命懸けのギリギリのところで勝負した結果、この世に生み出されたものです。
二十歳前後というのは、その勝負が可能な年頃なのでしょう。

以前、指揮者の岩城宏之や彫刻家の小田襄の取材に同席したことがありますが、
会った瞬間にとても強い“死の匂い”を感じました。

本当にプンプン匂ってきました。

二十歳を過ぎてなお、研ぎ澄まされた「感性」を保ち続けるためには、
常に命を懸ける覚悟が求められるのかもしれません。

あぁ、芸術家にならなくて本当に良かった。

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