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5☆s 講師ブログ

腕時計はしない

最近、時間はスマホで見るからという理由で、腕時計をしない若者たちが増えています。
しかし、打ち合わせ中や、客先での商談の場でこれをやると、

そんなにメールが気になるのか、と周りから顰蹙を買うことがありますので気をつけましょうね。

今回は、別の意味で「腕時計はしない」という人の話です。

太平洋戦争真っ只中の昭和19年(1944年)2月、強権を振るう東条英樹首相は、陸相と参謀総長をも兼務するという暴挙に出ます。

現代で言うと、原爆やミサイル実験を繰り返し、総参謀長でさえあっさりと粛清してしまう、あの国のトップのようなものでしょうか。

この措置は、戦況が悪化した末の苦肉の策でしたが、
政務と統帥を一元化するのは明らかに憲法に違反していました。

しかし、憲法違反だなどと指摘しようものなら、すぐに特高警察の餌食になってしまうので、
声を上げる者は誰一人いません。
とは言うものの、軍の中にもこの横暴を憂慮する心ある人たちがいました。

海軍です。
彼らのトップ嶋田繁太郎海相が、徹底して東条に媚びへつらう姿を、快く思わない人は海軍内に大勢いました。

6月、サイパン島に米軍が上陸した時、海軍の怒りは頂点に達します。

サイパン島奪還のために、海軍は陸軍に対して航空部隊の出動協力を要請したのですが、
陸軍はこれを強くはねのけたからです。

海軍省教育局第一課長の神重徳大佐は、これより前になんと東条英樹の暗殺を画策し始めていました。

首相の暗殺となれば、死刑は免れません。

まさに、日本のために身を捨てる覚悟でした。
そして、これを懸命に諫めていた教育局長の高木惣吉少将も、ここに至りついに翻意せざるを得ませんでした。

ところが同じ頃、陸軍でも強い危機感を抱くひとりの青年将校がいました。

日露戦争の英雄、乃木希典大将の参謀だった津野田是重を父に持つ、津野田知重少佐その人です。

憲兵を使った苛烈な人事統制は陸軍全体を震え上がらせ、異論を具申する者は誰一人いません。

彼の目には、もはや陸軍は、東条の意のままに動く骨抜きの組織としてしか写っていませんでした。

日本の将来を憂う血気盛んなこの若き将校もまた、密かにクーデターを決意し、文案をしたためます。

「サイパン必敗せば本土空襲、本土蹂躙の公算は大きい・・・
強力なる宮様内閣をつくり軍独裁を排し、速やかに敗北にあらざる和平策を確立することを要する。

もし軍内閣が退陣を承知しないとなれば、敢えて断乎、東条首相を抹殺してこれを倒す」

本土が空襲される前に、なんとかして戦争を終わらせなければならない。
そのためには、首相の抹殺さえも辞さない。

この文案は、同じ志と信じていた石原莞爾中将や、陸軍参謀の三笠宮らに手渡されます。

陸軍と海軍それぞれの組織で、互いに知ることもなく、2つの首相暗殺計画が密かに同時進行していたわけです。

風雲急を告げたのは7月7日でした。

この日、サイパン島玉砕。
ついに、暗殺計画は大きく動き出します。

海軍の高木少将らの暗殺決行日は、7月20日と決定します。

2台の車で東条の車を挟み撃ちにして、雨のように銃弾を浴びせる作戦です。
すでに車や拳銃の手配も完了していました。
7月20日が、奇しくもヒトラー暗殺未遂事件と同じ日だったことは歴史のいたずらでしょうか。

一方、陸軍の津野田少将らの方は、実行メンバーまでは決まりましたが、
時期や場所についてはまだ密議を重ねている段階でした。

ところが決行直前の 7月18日、事態は意外な方向に向かいます。

突然、東条内閣が崩壊してしまうのです。

表向きはサイパン陥落の責任をとったということですが、本当の理由は別にありました。

2つの暗殺計画が、それぞれの軍の上層部の心ある人々の知るところとなり、
陰で懸命な倒閣工作が行われていたのです。

東条内閣の退陣により、暗殺計画は自動的に中止となります。

しかし、これで終わりとはなりませんでした。

東条の側近たちや憲兵が巻き返しに出たのです。

海軍の計画は闇から闇に葬られましたが、陸軍の津野田少佐の方はそうはなりませんでした。
文案が証拠として残っていたからです。

逮捕された津野田少佐は、陸軍刑務所に送られ厳しい拷問を受けます。

必死の思いでそれに耐えた結果、翌年3月に禁錮2年、執行猶予2年という温情判決を得ます。

しかし喜びはつかの間でした。

軍人ではなく私人となった津野田の身に、今度は憲兵の暗殺の手が伸びます。

命からがら中国に脱出し、苦力となって身を隠すのがやっとでした。

半年後、敗戦国となった日本に帰国した彼が見たものは、見渡す限りの焼け野原でした。

後にこの元少佐は、半藤一利にこう語ります。

「私は今でも腕時計をしないんです。

それが事件が私に残したただひとつのことかもしれない。
腕時計は手錠を思い出させる。
手首に食い込む鉄の輪の冷たい感触だけは今も忘れていない」

後に、その信念を貫く意志の強さを買われ、信濃毎日新聞社の顧問を勤めました。
現代の軟派な新聞ジャーナリズムには、想像もつかない話です。

この度の、オバマ大統領の広島訪問は、改めて戦争と平和を考えるよい機会となりました。
しかし、時とともにその記憶は薄れていきます。

毎朝、腕時計を着けるその一瞬にちょっとだけ、この自分の信念に忠実に生きた男のことに思いを馳せるのも、
決して無意味なことではないと思います。

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