株式会社ファイブスターズ アカデミー

まずはお気軽に
お問い合わせください。

03-6812-9618

5☆s 講師ブログ

ブルースの父

父親はその息子を、音楽の道にだけは進ませたくありませんでした。

なぜなら、音楽には何の価値もないと思っていたからです。

息子が一生懸命貯めたお金で買ってきたギターを、
「悪魔の遊び道具のひとつ」と決めつけて返品させてしまいます。
一度は自分と同じ牧師にしようと考えましたが、思い通りにはなりませんでした。

後に“ブルースの父”と呼ばれたW・C・ハンディは、不況で鋳物工場の職を失ったのを契機に、
仲間と四重唱団を編成して万博博覧会があるシカゴを目指して貨物列車に潜り込みます。

しかし、間もなく制動手に見つかり物寂しい構内に入れられてしまいます。

哀れな4人が線路脇で悲しそうに歌い出すと、制動手は彼らを不憫に思い再び有蓋車に戻らせ
ディケーターまで運んでくれました。

鉄橋が ひびかせる のは

悲しい かなしい うた
列車が とおって ゆく たびに
ぼくは どっかへ 行きたく なるんだ。

口の なかまで 心が つきあげ

停車場へと ぼくは でかけた
南の くにへと ぼくを はこぶ
貨車は ないものかと さまよって。

ああ 節をしってて つらいのは

ホームシックの ブルースだ
泣き出すまいと がんばって 
ぼくは 口を ひらいては 笑うんだ。

ラングストン・ヒューズの『ホームシック・ブルース』(木島始訳)は、

このときのハンディの心情を歌ったものではないかと、私は思っています。
しかし、彼らがシカゴに着いてわかったことは、万博が1年延期になったということだけでした。

そこで、当時とても活気のある町と言われていたセント・ルイスに向かいますが、
彼らを待ち受けていたのは更なる試練でした。

失業者で溢れかえる街で音楽の仕事などあろうはずもなく、四重唱団を解散せざるを得ないばかりか、

その日食べるための仕事を見つけることさえ困難でした。
結局、何千人という一文無しの男たちと一緒にミシシッピー河の堤防に眠りました。

「夕日が沈むのを見るのは嫌」なのは、帰る家がない者にとって、

日暮れは耐えられない寒さの到来を告げる合図だからです。

それでもハンデイは実家に戻ろうとはしませんでした。
なぜなら、それは父親の考え、すなわち音楽には何の価値もないということを認めてしまうことに他ならないからです。

なんとか道路を舗装する仕事を見つけ、地方楽団と一緒に演奏を続けます。

そしてケンタッキーで妻となる女性と巡り会った時、幸運にも音楽ホールの職を得ました。

その後、努力に努力を重ねて30人編成の行列楽団の指揮者になり、

アメリカのみならずカナダやメキシコ、キューバにまで演奏旅行をしますが、
子どもが生まれたのを機に遂に放浪の日々に終止符が打たれます。

アラバマ農工大学で音楽と英語の教師として職を得たのですが、
学長が賛美歌とクラシックしか認めないという態度だったため、

次第にフラストレーションが溜まっていきます。

とうとう職を辞して、ミシシッピー州クラークスデイルの「ピシアスの騎士」楽団でバンドマスターに収まった頃、

後の人生を大きく変える決定的な場面に遭遇します。

クリーブラントでダンスミュージックを演奏していた時のことです。
波止場の労働者と思われる人達が現れ、俺達にも演奏の機会を与えて貰えないかと提案してきたのです。

ハンディにとって、仲間に短い休憩を与えることができるのはとてもありがたいことでした。

ところが、そのボロ着の若者たちが演奏を始めるや否や、ホールの雰囲気は一変します。

誰もが先ほどとは見違えるように、活き活きと楽しそうに踊り出したではありませんか。

音楽的にろくな訓練も受けず、しかもおよそ楽器とは呼べないような潰れた弦楽器を打ち鳴らす彼らが、

あっという間に人々を熱狂の渦に巻き込んだのです。
雨のように飛び交った銀貨や銅貨は、ハンディの楽団が一晩かかって稼ぎ出す金額を明らかに上回っていました。

しかも、それは決して美しい歌ではありませんでした。

毎日、綿畑や堤防から聞こえてくる労働歌に他ならなかったのです。

ハンディは考えました。

この音楽こそ、人々が求めているものではないのかと。

さらに、メンフィスの市長選挙のときに貴重な教訓を得ます。

出馬したエドワード・H・クラムブ氏のために選挙戦用の曲を書きますが、これが好評で見事当選。
しかし、このときハンディは曲の価値を理解していませんでした。
わずか50ドルで売り渡されたその曲は、『メンフィス・ブルース』と題名を替えて全米中で大ヒットしてしまったのです。

作曲に目覚めたハンディですが、ひとつ問題を抱えていました。

子どもが4人に増えてしまい、もはや家での作曲は無理だったのです。
そこでセント・ルイスの堤防通りにあるバーの上に部屋を借り、夜を徹して新しい歌を書きます。

最初に浮かんだのは、ハンディが12歳でありついた石切場の水運びの仕事の時に聞いたものでした。

石切人がハンマーを打ち下ろす時に、調子を取るために口にする音頭のようなものです。

そうです。

ブルースとは、もともと黒人の肉体労働者が、過酷な力仕事の時に口ずさんだ節回しが起源なのです。

それから一文無しで貨車に潜り込んだことや、町から町へとぼとぼ歩いたことなどが思い出されます。

翌日には管弦楽に編曲し歌詞をつけて、その夜のダンスパーティーでお披露目したところ拍手喝采の嵐。

ところが、3日後に意気揚々と帰宅したハンディを待ち構えていたのは、なんと妻ののし棒でした。

何の連絡も無しに突然姿をくらました夫に、妻はカンカンだったのです。

でも、しばらくすると妻の怒りはウソのように収まります。
なぜなら、今度は曲の権利を売り渡さなかったハンディに、

その曲『セント・ルイス・ブルース』が巨額の利益をもたらしてくれたからです。

『セント・ルイス・ブルース』を世界的に有名にしたのは戦争かも知れません。

第一次世界大戦に参戦したアメリカ軍は、黒人だけの部隊を編成しますが、
特別に音楽の演奏を許されていた彼らが好んで演奏したのがこのブルースでした。
第二次世界大戦中には、日本をはじめ敵国の兵士でさえ、この曲を聴いていたというエピソードが数多く残っています。

なぜブルースは世界中で愛されるのでしょうか。

ラングストン・ヒューズは『ジャズの本』の中で、ブルースについてこう語っています。

「ブルースは、大部分、愛のないこと、金のないこと、家のないことについてのたいへん悲しい歌です。

それでも、ほとんどいつでもブルースには、ひとびとを笑わせる言葉での、何かユーモラスなひねった考えがあります」

例えホームレスに身をやつしても、決して失うことのなかった明るさ。

もしかしたら絶望的な戦場においても、兵士たちが心から求めていたのはこの明るさだったのではないでしょうか。

1年間、毒気を含んだこのブログをご愛読いただき誠にありがとうございました。
「癒やし」は至るところに氾濫し、ネットも犬や猫の写真に占拠されていますが、「癒やし」は問題を解決してくれません。
来年も問題解決のヒントの提供を目指して、辛口のブログを書き続けたいと思います。
引き続き、よろしくお願いいたします。

日々を慰安が
吹き荒れる。

慰安が
さみしい心の人に吹く。
さみしい心の人が枯れる。
(吉野弘『日々を慰安が』より)

初めての方へ研修を探す講師紹介よくある質問会社案内お知らせお問い合わせサイトのご利用について個人情報保護方針

© FiveStars Academy Co., Ltd. All right reserved.