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講師ブログ

風見鶏ガリレオ(2)

望遠鏡の魔力に取り憑かれてからというもの、ガリレオは庇護者である権力者に一層媚びるようになります。

より高い給料を求めてパドヴァ大学の教授の職を辞したガリレオは、トスカナ大公国のメディチ家の庇護を受けることを目論みます。

木星の衛星を発見した時に、真っ先にメディチ家にそれを知らせただけでなく、その星を「メディチ家の星」と命名するほどゴマを擦っていたのはこの布石でした。
さらに、かつて君主コジモⅡ世の家庭教師を務めていたという事実も、彼の背中を押します。
上司に媚び諂うサラリーマンはそこら中にいますが、ガリレオの場合はそんなレベルをはるかに超えていますよね。

それでも、ガリレオはまだ満足できません。
富は手に入れたので、次は名声の番です。

ガリレオは、天体観察で得た結果をローマの学者たちに伝えようと考えました。
アリストテレス以来「月は鏡のように滑らかな球体である」とされてきたのですが、実際には無数のクレーターがあること。
木星には少なくとも4つの衛星があり、さらには金星には満ち欠けが認められることなどです。

1611年、ローマ学院での講演は大成功を収めました。
そして、5名のローマ貴族院からなる名誉あるアカデミーの6人目の会員に選ばれます。
ついにガリレオは、ローマ教皇という究極の庇護者に取り入ることができたのです。
富と名声の頂点に上り詰めたわけです。

ところが、ここに思わぬ落とし穴がありました。
この時発表した天体観察結果のいくつかは、そのまま地動説に繋がるものでした。
この頃になると、例えローマ教皇のお膝元の学者たちであっても、地動説を認めざるを得ない証拠がズラリと揃っていたのですが、科学という世界において実に不思議なことは、真実よりも学者の嫉妬心の方が勝ることです。

講演から4年後、嫉妬する学者たちの陰謀が実を結び、ガリレオはローマに呼び出され審問を受けます。
世に言う「第一次宗教裁判」です。
この時は、ガリレオの庇護者たちもまだ勢力を保持していたのでかろうじて事なきを得ますが、1632年に出版された『天文対話』の場合は事情が違っていました。

この本は三人の人物による対話形式で書かれているのですが、カトリックの立場を代表する人物が他の二人によって嘲笑されるくだりがローマ教皇の逆鱗に触れます。
ちなみに、この書でガリレオが主張したのは海の干満こそ地球自転の証拠だという説ですが、今では月と太陽の引力の影響により引き起こされるという、ケプラー説の方が正しいことは小学生でも知っています。

不幸なことに、この頃になると頼みの綱のトスカナ大公国の勢力は大きく衰退していました。
まさに絶体絶命のピンチ。
卑劣な教皇庁側が用意した数々の捏造証拠の前に、もはやガリレオの死刑は免れないように見えました。

しかし、有力者達による懸命な助命嘆願と、自説を完全に放棄して二度と邪説を口にしないと、ガリレオがなりふり構わず神に誓ったことで奇跡が起きます。
フィレンツェ郊外での蟄居という、極めて軽い判決が下されたのです。

こんな時、プライドを持たない風見鶏は有利です。
そんなガリレオが、「それでも地球は回っている」などと言うはずがないではありませんか。

ところが、罪人の汚名を着せられたガリレオに、さらなる不幸が追い討ちをかけます。
最愛の娘の死に続き、ドイツから訪ねてきた義理の妹とその四人の子供が、到着後まもなくペストに罹患しこの世を去ります。
さらには、自身の病気がさらに悪化。

ここに至り、失うものがなくなったガリレオは突如豹変します。
天啓に導かれるように、長い間封印していた「落体の法則」の発表を決意するのです。
ひたすら富と名声を追い求めた男が、自身の使命に目覚めた瞬間でした。

ガリレオはこの時、すでに齢70を超えていました。
人は、余命幾ばくも無い瀬戸際に至り、初めて自分がこの世に生を受けたことの真の意味を知るのでしょうか。

不朽の名著『新科学対話』は、ローマ教皇の怒りを恐れるあまり、ドイツでもイタリアでも出版されませんでしたが、1638年にようやく新教国オランダで日の目を見ます。
しかし、この本がアルプス山脈を越えてガリレオの手許に届けられても、残念ながら彼はそれを目にすることができませんでした。
長年に渡り太陽を観測した影響で、彼の両眼は完全に失明していたのです。

それでも、ガリレオは満足だったのではないでしょうか。
神の摂理は宗教によって決められるのではなく、自然という書物の中に書かれているという持論を、誰の目も気にせず堂々と主張できたわけですから。

振り返ってみると、天文学の分野におけるガリレオの観察結果というのは、概して凡庸なものばかりと言わざるを得ません。
月面観察にしても、ガリレオ以前にもっと詳細な研究をした学者がいました。
木星の衛星発見に関しても、ガリレオが最初とする説には異を唱える者さえいます。
天体観察について、一般の人々の興味を引きつけたことは事実ですが、彼の研究そのものは理論天文学には全く貢献していないのです。

ただ、「落体の法則」だけは違います。
今も燦然と輝く金字塔として、科学史に刻まれています。
この法則が世に出ていなければ、ニュートンの万有引力の発見もなかったのではないかと言われています。
ただし、その後光があまりに強すぎて、ガリレオの人物像を必要以上に脚色してしまったことも事実です。

もし、ガリレオが「落体の法則」を発表していなかったら、後世の彼の評価は一体どうなっていたでしょう。
ひたすら富と名声を追い求めた挙げ句、自分に不利と見るやあっさり信念を捨ててしまうような風見鶏が、果たして歴史に名を残すことができたでしょうか。

その後、ローマ教皇パウロ2世がガリレオ裁判の誤りを認めたのは、彼の死から350年後の1992年。
つい最近のことですよね。
アポロ11号は、それより20年以上も前に月に降り立っていたというのに・・・。

裏を返せば、ヴァチカン内では21世紀を迎える直前まで、天動説が大手を振ってまかり通っていたということになります。
しかもこの時、地動説とともにローマ教皇に認められたのは、なんとダーウィンの進化論。
ということは、この時まで人類の始まりは天地創造の神が土から創ったアダムであると信じられていたわけです。

私はそこに、宗教というものが持つ底知れぬ不気味さを感じてしまうのです。

ガリレオが自分の信念を捨てるほど恐れていたのは同業者の嫉妬などではなく、やっぱりこれだったのかもしれません。

風見鶏ガリレオ(1)

「それでも地球は回っている」
ローマで宗教裁判にかけられた時、身の危険を顧みず地動説の正しさを主張したガリレオ・ガリレイ。

まさに信念の人。

長い間そう思っていましたが、実はこの話は真っ赤なウソでした。
ついでに言えば、ピサの斜塔から物体を落下させたというあの有名な実験も弟子たちの創作です。

ガリレオは信念の人どころか、それとは真逆の完全なる「風見鶏」。
時の権威に媚び諂い、庇護者のご機嫌を取ることに汲々とした一生を送った男、それがガリレオの真の姿です。

彼の最大の業績と言えば、何と言っても「落体の法則」。
その発見のきっかけは、ギリシャの大学者アリストテレスの説に疑問を抱いたことでした。

アリストテレスの説とは、物体が落下するのは重さがあるからで、重い物体ほど早く落下するというものです。
実は、この説の欠陥については早くから指摘されていました。

それは、重い物体と軽い物体を連結させたら、重い物体と軽い物体の中間の速度で落下するのか、それともその物体はさらに重くなっているのでより速い速度で落下するのかという疑問です。
答えが二つに分かれてしまう事自体、この説の矛盾を示しています。

この時ガリレオの頭に閃いたのは、空気抵抗のない真空中であれば、あらゆる物体は同じ速度で落下するのではないかというアイデアでした。
このように、例え実現不可能でもまずは理想的な状態を頭の中で作り出し、そこで得られた仮説について、今度は実現可能な実験を積み重ねて検証していくという、まさに現代の物理学の手法を編み出したのがガリレオなのです。

そしてこの手法を基に、ついに「自由落下する物体の落下距離は、それに要した時間の二乗に比例する」という「落体の法則」を発見したのです。
しかしガリレオは、この世紀の大発見を発表せずに、なぜか長い間封印してしまいます。

その話の前に、今少し彼の人生の歩みを追ってみましょう。
音楽家だった父親の影響か、権力や権威に対する反骨精神が旺盛で、「喧嘩家ガリレイ」と異名をとったガリレオは、一生金には困らない医者を目指してピサ大学の医学部に入学します。

しかし、当時のイタリアは教授とのコネがない限り、奨学金を受けられない状況にありました。
早々に中退を余儀なくされたガリレオは、富裕層の子女の家庭教師をして生計を立てます。
落体の研究に着手したのは、ちょうどその頃でした。

やがてピサ大学で数学教授の職を得ますが、給料は神学教授の1/ 10。
自然科学が、宗教の下僕だった時代の話です。
父親の急逝により、母親や妹たちの扶養義務も背負わざるを得なかったガリレオにとって、教授よりも実入りのよい家庭教師のアルバイトは絶対に止められないものでした。
ピサ大学の教授時代に、アリストテレスの力学体系の誤りを次々に明らかにしたのですが、それが同僚教授の反感を買い、わずか3年であっさりクビにされてしまいます。

この若い頃の経済的困窮が、ガリレオの性格をすっかり変えてしまったのかもしれません。
急進的な科学者にも寛容だったパドヴァ大学に移っても、ピサ大学の苦い経験からか、必要以上に周囲の顔色を窺うようになっていました。

一方で、彼の不誠実な人間性を物語るエピソードは山ほどあります。
特にそれが顕著なのが、天才的な理論天文学者ケプラーとの交遊録です。
ケプラーが『宇宙の神秘』を著したのが25歳。
その書を贈られた32歳のガリレオは、実はケプラーと同じく地動説の信奉者であることを手紙で告白します。

にも関わらず、パドヴァ大学の講義では、数十年に渡り天動説を教えています。
それだけではありません。
地動説は誤りであると、攻撃までしているのです。

すでにこの頃になると、地動説に対する迫害などすっかり影を潜めていました。
ローマ・カトリック教会は、この説を教皇庁に持ち込まない限り黙認していたのです。
事実、ケプラーの著書に対しても、教会は何のリアクションも取っていません。
ガリレオが恐れていたのは、周囲の教授たちの目だったのです。
つまり、周りに嫌われないことが最優先事項だったわけです。

そんなガリレオに対してケプラーは、自らの信念に基づいて勇気をもって自説を発表すべきだと励まします。
ところが、これが気に入らなかったようで、その後12年間に渡りガリレオはケプラーにただの一通も手紙を書いていません。
そして、13年目に手紙を出したきっかけもまた、ガリレオの人間性をよく物語るものでした。

オランダで望遠鏡なるものが発明されたと聞いたガリレオは、同じく倍率9倍の望遠鏡を作りベネチア共和国の議会に進呈します。
サン・マルコ広場での供覧会は大成功を収めました。
その後20倍まで改良して、月や木星の衛星を観察した結果を小冊子にまとめると、これが天文学とは縁のない一般の人々の間で大評判を呼びます。

ところがこの望遠鏡、視界が極端に狭いため非常に見えづらく、実際に望遠鏡を覗いた天文学者の多くは、小冊子に記載されている観察記録はデタラメではないかと疑っていました。
同業者が、実力以上に世間からチヤホヤされるのは確かに愉快なことではありませんが、とりわけ学者の嫉妬というのは想像を絶するものがあります。

苦境に陥ったガリレオは、すでに神聖ローマ帝国の数学者となっていたケプラーに助けを求めたのですが、これが13年目の手紙です。

この身勝手な依頼に対して、ケプラーは実に寛大な返事を書きます。
「望遠鏡なるものはまだ見ていないが、ガリレオのような優れた人物が言うことは真実に違いない」

何という広い心でしょう。
この弁護のおかげで、ガリレオはなんとか窮地を脱することができました。

しかし、そこは不誠実この上ないガリレオのこと、感謝の手紙など書くはずもありません。
その上ケプラーが、「望遠鏡をぜひ一台送ってほしい」という手紙を何度送っても梨の礫。
怒ったケプラーがガリレオをなじると、「すぐに送る」と慌ててその場を取り繕うのですが、その約束も実行されることはありませんでした。
私たちが学校で習ったガリレオ像とは、ずいぶんかけ離れていると思いませんか?

やがてケプラーは、別ルートからこの望遠鏡を仕入れると、すぐにその欠点を見抜いてしまいます。
そして、凸レンズと凹レンズではなく、凸レンズを二つ組み合わせるという改良を施すのですが、これが現在も使われているケプラー望遠鏡です。
この事実をもってしても、どちらが本当の天才だったか分かろうというものです。

今も科学史に名を残す二人の偉人の交わりが実に奇妙なものとなってしまったのは、ガリレオのエキセントリックな性格によるものと言わざるを得ません。
しかし、そんなガリレオでも自分の使命に目覚める時がやってくるのですが、それはまだまだ先の話でした。

ジャズと麻薬

その男の死体は、ラスヴェガス郊外の砂漠で発見されました。
警察の検視によれば死因は撲殺。
首の骨がポッキリ折れていたそうです。
こうして、デクスター・ゴードンと人気を二分したテナー・サックス奏者ワーデル・グレイは、その34年の短い生涯を閉じたのでした。

50年代のロサンゼルスと言えば、「白いウェスト・コースト・ジャズ」の全盛期。

音楽の高等教育をちゃんと受けた譜面の読める白人たち、
すなわちジェリー・マリガン、アート・ペッパー、バド・シャンク、デイヴ・ブルーベック等による「爽やか」なジャズは多くの人々を魅了しました。

しかし、意外なことに当時のロサンゼルスでは、ワーデル・グレイを始めチャールス・ミンガス、デクスター・ゴードン、ハンプトン・ホース、エリック・ドルフィー、チコ・ハミルトンといったゴリゴリの黒人ミュージシャンも大活躍していたのです。

「爽やか系」というのは、レコード会社が作ったマーケティング戦略上の架空のイメージで、その実態は白人も黒人も皆麻薬漬けという惨憺たるものでした。
ジェームス・ディーンを彷彿とさせる風貌で、真っ白なTシャツ姿でジャケットを飾っていた人気トランペット奏者チェット・ベイカーも、本当は手がつけられないほどのジャンキーでした。

死体で発見されたワーデル・グレイも例外ではありません。
2本のテナー・サックスがまるで追いかけっこをしているような様子から、『ザ・チェイス』と名付けられたアルバムでは、豪放磊落でゴツゴツした演奏のデクスター・ゴードンとは対照的に、グレイは流麗で繊細なテナーを披露しています。
もしかしたら、シェークスピアやサルトル、カミュを愛読していたという読書傾向が影響していたのかもしれません。

1955年5月、バンド・リーダーだったベニー・カーターの誘いで、新しく開業するムーランルージュ・ホテルのステージに出演するためラスヴェガスに向かったグレイは、なぜかホテルの開業日には姿を見せませんでした。
そして翌日になって、無惨な遺体となって砂漠で発見されたのです。

遺体の頭部には損傷が認められ、さらには車で轢かれた跡まであったため、別の場所で殺されて運ばれたのではないかという声が上がります。
中にはラスヴェガスだけに、ギャンブルが原因で地元の顔役と揉めて殺されたのだと、したり顔で解説する者まで現れました。

ところが数ヶ月後、容疑者として逮捕されたタップ・ダンサー、テディ・ヘイルの証言は驚くべきものでした。
二人がヘロイン・パーティーを開いている最中、グレイは過剰摂取が原因で死んでしまったというのです。
事の発覚を恐れたヘイルが車で死体を運び、砂漠に投げ捨てた際に首の骨が折れたというのが真相でした。

当時のジャズ・ミュージシャンは、どうしようもないほど麻薬まみれでした。
それを示す最もわかりやすい例が、45年の年末から47年春までロサンゼルスに滞在した、ジャズの神様チャーリー・パーカーです。

彼がダイアル・レコードと交わした契約書には、今後発生する印税の半分は、麻薬の売人であるエメリー・バードに支払われることが明記されていました。
ちなみにこのレコード会社で、パーカーを凌ぐ最大のヒットとなったアルバムが、先ほど紹介した『ザ・チェイス』です。
当時、グレイがいかに人気があったかが窺えますよね。

またパーカーは、エメリー・バードの通称である「ムース・ザ・ムーチェ」をそのまま題名にした曲まで作っています。
さらには『パーカーズ・ムード』という曲の冒頭で提示される三音、すなわちB♭-G-Dはセントラル・アヴェニューで麻薬の売人を呼ぶ時の合図でした。
街角でこの音階で口笛を吹けば、どこからともなく売人が現れるのがロサンゼルスでした。
もしかしたら、パーカーにとってこのテーマは、天国にいるロスの友人たちへのレクイエムだったのかもしれません。

麻薬は、ジャズ・ミュージシャンの人生を一変させます。
『ザ・チェイス』で、ワーデル・グレイと白熱のテナー・バトルを繰り広げたデクスター・ゴードンも麻薬で捕まり、長い刑務所生活を余儀なくされました。
でも、悲惨な最期という点では、トランペット奏者の方が多いような気がします。

ジャズ・ファンならずとも、一度はそのメロディーを耳にしたことがある『サイド・ワインダー』。
リー・モーガンは、この大ヒット曲で手にした財産を全て麻薬に注ぎ込んだ挙げ句、愛人のピストルで胸を打ち抜かれて息絶えます。
享年34。

天才クリフォード・ブラウンが、好きなトランペッターとしてただ一人名前をあげたセオドア“ファッツ”ナヴァロの、“ファッツ”とは“太った”という意味の愛称ですが、麻薬のやり過ぎによりわずか26歳でこの世を去った時には、その体は見る影もなくやせ細っていたそうです。

極めつけは、1988年5月のアムステルダム。
夜明け近くにバーを出てきた千鳥足の酔っ払いが、歩道に横たわる頭の砕けた死体を発見します。
ジャンキー御用達の、安ホテルの3階の窓から転落死した男こそ、かつての爽やかな「白いウェスト・コースト・ジャズ」の旗手チェット・ベイカーでした。

自殺か事故死か、はたまた他殺?
しかし、人々が何より驚いたのはその風変わりな死に様ではなく、手のつけられないジャンキーが58歳まで長生きしていたという事実の方でした。

もしジャズが麻薬と無縁だったら、モダン・ジャズは一体どんな発展を遂げていたのでしょう。
返す返すも、残念でなりません。
麻薬による高揚感が名演奏を生み出したなどと戯言を口にする人がいますが、それは絶対に違います。

誰かが言ってたっけ。
麻薬のお陰で素晴らしい演奏ができる確率なんて、STAP細胞を発見する確率より低いって。

白票

不祥事が続く中、企業ガバナンスの切り札として一躍脚光を浴びたのが「社外取締役制度」。

しかし、東芝の例を見てもわかるように、この制度を導入したからといって、すぐに健全な企業経営が実現できる訳ではありません。

そもそも企業側から見れば、社内事情に疎い上に利益を上げる責任を負っていない人たちから、あれこれ経営に口出しされるのはあまり面白いことではありません。
ですので、都合の悪い情報は社外取締役には伏せておきたいという気持ちが沸いてくるのも無理からぬこと。

唯一、この社外取締役制度が機能したと思われる事例が、2016年のセブン&アイ・ホールディングスです。
当時の会長兼CEO鈴木敏文が、セブン-イレブン・ジャパンの井阪隆一社長兼COOを強引に退任させようとしたことがきっかけで事態は迷走します。
鈴木は井阪本人と、創業者でホールディングスの名誉会長である伊藤雅俊の了解を取り付けないまま、ホールディングスの指名・報酬委員会に井阪退任案を諮問します。

この委員会を構成する4人のうち、2人は社外取締役。
彼らは、好業績を維持してきた社長を退任させる理由が見つからないと、この案に“No”を突きつけます。
2対2では結論は出ません。

しかし鈴木は、委員会の合意なしに強引にこの人事案を取締役会に提出してしまいます。
取締役は全部で15人。
過半数の8人が賛成すると、この人事案は承認されてしまいます。
否が応にも世間の注目が集まりました。

無記名投票の結果は賛成7、反対6、そして白票2。
賛成票がわずかに過半数に届かなかったため、この人事案はかろうじて否決されたのでした。

社外のみならず、社内取締役からも反対者が出たという事実は、鈴木にとってよほどショックだったのでしょう。
その日の午後記者会見を開き、自ら辞任を発表してしまいます。

鈴木はセブン-イレブンをここまで成長させた最大の功労者ですし、井阪も非常に優れた経営者です。
この騒動の背景には、創業家の思惑など様々な事情が複雑に絡んでいることも想像に難くありません。
私にはこのお家騒動の真相は知る由もありませんし、どちらの側に「義」があったのかもわかりません。

しかし、これをもって企業ガバナンスが正常に機能したと、本当に言えるのでしょうか?
最初に疑問に思うのは、白票を投じた取締役がいたことです。
しかも、2人も。

白票とは一体どういう意味でしょう。
もしかしたら、後々のことを考えてどちらが勝っても良いように、あえて旗色を鮮明にしなかったのかもしれません。
だとすれば、この上なく姑息な自己保身策と言えましょう。

そもそも、判断しなければならない場面で白票を投じるという行為は、「私には判断する能力がありません」と宣言しているようなものです。
この時点ですでに取締役失格ではないでしょうか。

さらに、これが無記名投票だったことにも疑問を感じます。
無記名にする意味とは何でしょう。
どちら側についたかバレないようにする事で、本音の投票ができるように配慮したのでしょうか。
ここまでお膳立てしてもらわないと自分の意思を表明できないのだとしたら、取締役というのはなんとも情けない存在です。

社外取締役制度を導入しようがしまいが、企業ガバナンスの根幹は社内取締役にあります。
その高額な役員報酬の中には、自らの出世や属する派閥などとは関係なく、自分の正義を貫き通す「覚悟料」も含まれていることをしっかりと自覚すべきです。

給料を上げるには(3)

企業の利益が、その利益を稼ぎ出した社員に還元されないことについて、社員から文句は出なかったのでしょうか?

出ませんでした。
なぜなら、世の中がデフレだったからです。

また、企業にとっては、株主の権利が強くなったため、株式配当に回す分も確保しなければならないという事情もありました。
かくして、会社がどんなに儲かったとしても社員にはその恩恵が回らないという体制が出来上がってしまったのです。
これを経済学の専門用語で、「労働分配率の低下」と言います。

経済というのは、お金が動くことで景気がよくなります。
406兆円もの巨額のお金が企業の内部留保として塩漬けにされていることは、景気にとっては非常に大きなブレーキとなります。
これを吐き出させなければいけません。

ここでひとつ、思考実験をしてみましょう。
もし、法人税率がかつてのように高かったらどうなっていたでしょうか?
企業は、バカ高い法人税を払ってでも、あえて内部留保しようと考えたでしょうか?

そうは思えません。
要するに給料が上がらないのは、アベノミクスが失敗したからではなく、法人税率が引き下げられたことで企業のビヘイビアが変化したからです。

そこで、給料を上げる方法が見えてきます。
法人税率を引き上げればよいのです。

利益に対してバカ高い法人税を課せば、企業は社員への給料やボーナスを増やそうとするでしょう。
さらには、研究開発や設備投資に支出をしたら、その分法人税を減税するという政策も効果的です。

例えば、研究開発や設備投資につぎ込んだ金額と同じ額を、別途利益から非課税枠として差し引いてあげたらどうでしょう。
つまり1億円の利益が出た場合、そのうち5000万円を研究開発や設備投資に使ったら、残りの5000万円は丸々非課税となり内部留保できるという仕組みです。
それでは税収が減ってしまうというのなら、非課税枠は半分の2500万円でもいいです。

これなら景気高揚にも、技術革新にも繋がります。
アベノミクスの3本目の矢は、「民間投資を喚起する成長戦略」だそうですが、これにピッタリの政策だと思いませんか?

ついでに、トマ・ピケティの言うように、所得税の累進課税の傾きをもっと急にして、金持ちからガッポリ税金を取って低所得者層に分配すれば格差も縮まります。

低所得者層の所得が増えれば、その多くは消費に回ります。
消費が増えると、確実に景気はよくなります。
景気がよくなれば、自然と税収は増えるものです。

これと全く正反対の効果となってしまうのが、消費税率の引き上げです。
消費税率を引き上げると消費は冷え込みますので、企業にとってはモノが売れなくなります。
モノが売れないと、企業の利益は減ります。
すると、国に納める法人税も減ります。

また、景気が悪くなると、企業は社員の給料を引き下げようとします。
社員の給料が減ると、国に納める所得税も減ります。

1997年に消費税率を3%から5%にアップした時、日本の景気は極端に悪化しました。
その結果、消費税の増収分と、法人税・所得税のマイナス分が相殺され、結果的に国全体の税収は4・5兆円もマイナスとなってしまったのです。
ここからあの忌まわしいデフレが始まりました。

もし、消費税率を10%に引き上げると、この時以上に消費が落ち込むことは明らかです。
なぜならモノを買う時、税率8%なら消費税がいくらになるか、計算が面倒なのであまり意識しませんが、10%だと消費税がいくらかすぐに暗算できます。
ですので、買い控えが相当増えると予想されるからです。

ここに、給料を実質的に上げるもう一つのヒントが隠されています。
それは、消費税率を引き下げるか、さもなくば消費税そのものを廃止することです。

考えてもみてください。
消費税率の引き上げを声高に主張しているのは、国会議員や官僚、さらには大学教授や新聞記者などです。
彼らの職業に共通している点が何かわかりますか?

それは、景気が悪くなってもリストラされる心配がないということです。
景気がどんなに悪くなっても、絶対に失業しない安全圏に住む人たちの意見に惑わされてはいけません。

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