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講師ブログ

見えざる資産(1)

競合の多い企業にとって最大の課題は、どうやって他社より優位に立つかということです。

経営学では、二つの考え方があります。

ひとつはマーケットを重視する考え方で、「ポジショニング・ビュー(市場競争戦略論)」と呼ばれるものです。


ハーバード大学のマイケル・ポーターらが主張したもので、製品と市場の状況とか、企業の事業ユニットと市場の関係について、以下の5つの外部要因から分析します。

①新規参入の脅威
②同じ業界の敵対関係(競合企業)
③代替製品の脅威
④買い手の交渉力
⑤売り手の交渉力

簡単に言うと企業外部にある「見えるもの」を分析し、マーケットにおける最適なポジションをとることで優位性を保とうとする理論です。
これは多くの経営者が認識しているところです。

役員訓示の場面などでは、必ずと言っていいほど「変化する外部環境」のことが語られます。
まるで危険を知らせるサイレンのように、何度も何度も外部環境の変化に関する断片的な情報が提供されますが、具体的にどう対応すればいいのかはいつも謎に包まれたままで終わります。

では、変化する外部環境の分析を徹底的にやれば、生き残りの道筋が見えてくるのでしょうか。

外部環境を分析すればするほど、それは事業や経営戦略の見直しに繋がっていきます。
そしてほとんどの場合、その行き着く先は「リストラクチャリング(事業再構築)」です。

人をリストラすると、人に付随する様々なノウハウもリストラされてしまいます。
いや、ノウハウだけではありません。

職場によい影響を与えていた、その人の考え方や行動力、さらには仕事に対する取り組み姿勢といった、いわゆる「見えざる資産」までも失われてしまいます。

一方、「ポジショニング・ビュー」とは正反対に、マーケットではなく企業内部を重視する考え方もあります。

「リソースベースド・ビュー(内部経営資源に基づく戦略論)」と言われるものです。
これは製品やサービスといった「見えるもの」ではなく、それらを支える「見えないもの」、すなわち企業内部の潜在的資源の方にスポットライトを当てる考え方です。

プラハラードとハメルは「コアコンピタンス」という考え方を提唱しました。
コアコンピタンスとは、製品やサービスのことではなく、企業の内部に潜在している「人間の行動や能力の総体」と定義されています。
これを重視した経営を行えば、中長期的に優位に立てると彼らは主張します。

この立場をとるバーニーは、企業内資源の中で最も重要なものは「人材」であると断言します。
なぜなら、人材という資源は市場から容易に調達できるわけではありませんが、逆に外部が簡単に模倣できるものでもありません。

つまり人材こそが、他の資源では代替することのできない「見えざる資産」の代表選手というわけです。

「変化する外部環境」を声高に訴える経営者はたくさんいますが、不思議なことに「人材育成」を最優先に考える人はそれほど多くありません。

彼らはおそらく、「マーケットが変化しているぞ!」と警鐘を鳴らすことで、社員が自らの意識を変え、さらには行動までをも自動的に変えてくれることを期待しているのでしょう。
しかし残念ながら、その成功事例など見た試しがありません。

なぜ、うまくいかないのでしょうか。
それは意識が変わることと、行動が変わることの間にはとてつもなく深い溝が横たわっているからです。

ただし、研修によって意識を変え、その後のフォローによって行動を変えた事例ならありますのでご紹介しますね。

悪人エジソン(2)

テスラとエジソンの間で繰り広げられた電流戦争は、1893年のシカゴ万博で遂に決着を見ます。

シカゴ万博と言えば、先月の『遅刻がきっかけで』で紹介した、屋井先蔵の乾電池が展示された博覧会です。
電気というものが初めて世の注目を浴びたこの万博の電気設備契約を、なんとテスラのスポンサーであるウェスティングハウス社が獲得します。

ついに交流が勝利したのです。
私たちが今使っている電灯も冷蔵庫もエアコンも携帯電話も、すべてニコラ・テスラがいなかったら存在しなかったものなのです。

このシカゴ万博で直流を提案し一敗地に塗れたのは、エジソンが興したエジソン・ゼネラル電気会社を吸収合併したゼネラル・エレクトリック社、すなわち現在のGEです。

ところが同じ年の、ナイアガラ瀑布に水力発電所を作るための発電機競争入札では、GEは直流ではなく交流方式を提案しています。
なんという変わり身の早さ!
これがGEという会社の強さの秘密なのかもしれません。

エジソンとGEを「光」に例えるならば、テスラとウェスティングハウス社は間違いなく「影」です。
日本ではオウム真理教が、「阪神淡路大震災はテスラの地震兵器により引き起こされた」と機関誌に発表したことで、
テスラには“マッド・サイエンティスト”という誤ったレッテルが貼られてしまいます。

事実この狂気の宗教団体は、ベオグラードにあるテスラ博物館に幹部を派遣し、テスラの論文をパソコンに取り込んだりしていました。
地震兵器はサリンと並んで、ハルマゲドンを引き起こすことのできる有力候補だったのです。

また、テスラのパートナーであるウェスティングハウス社はやがてM&Aの荒波に飲み込まれてしまいますが、
わずかにその名を残していた末裔の会社が、今回の東芝事件の主役を演じることになろうとは一体誰が予想したでしょう。

エジソンとテスラの違いは一体何だったのでしょうか。

エジソンが一つのアイデアをコツコツと蜂のような勤勉さで検証したのに対し、テスラは次々と沸き出るアイデアを事業にする作業が追いつきませんでした。
ラジオ放送や無線による遠隔操作、さらには音声認識機能や殺人光線といったテスラのアイデアを後生の人々が事業化できたのは、彼の死後かなりの時間が経過してからのことです。
この天才は、余りに早く生まれてしまったとも言えましょう。

しかし、と私は思うのです。
もっと根本的な違いがあるのではないのかと。

電流戦争の際に、ウェスティングハウス社から資金難を理由に特許料の放棄を求められたとき、
電気の普及のためならとその場で契約書を破り捨てたその崇高な「志」こそ、
エジソンが絶対に持ち合わせていないものでした。
それはオスマントルコからヨーロッパを守り、ナチスドイツにも怯むことなく戦ったセルビア人の血と関係していたのかもしれません。

しかし、歴史に名を刻むことができる条件は、結局のところ志の高さではなく、富か名声のどちらかを掴むことです。

でも、そんなテスラにも名声を手にするチャンスはあったのです。
1915年11月『ニューヨーク・タイムズ』紙に、テスラとエジソンがノ ーベル賞を同時受賞するというスクープ記事が掲載されます。
その翌日、記者の取材に対して「エジソンは1ダース以上のノーベル賞に値する」と賞賛しながらも、「私の研究は次の数千年間のすべてのノーベル賞に値する」と自画自賛したテスラ。

しかし、残念ながらこの報道は全くの誤報で、テスラはノミネートさえされていませんでした。
まぁ、推薦くらいはされていたでしょうが、かつてはヒトラーやスターリンがノーベル平和賞に推薦されたこともあるくらいですから、推薦されることに価値があるとは思えません。

この騒動の埋め合わせをするかのように、アメリカ電気工学界最高の栄誉がテスラに贈られますが、その賞の名は皮肉にも「エジソン賞」。
当初は、「私ではなく、すべての受賞者から不当な分け前を奪ったエジソンをこそ表彰すべき」と受賞を断っていたテスラでしたが、度重なる協会側の説得に折れ、ついに授賞式に姿を現します。

この時テスラ61歳。
片や、かつての天敵であるテスラへの授賞を認めたエジソンも、すでに70歳に達していました。
互いに齢を重ねたことにより、少しだけ遺恨が薄れていたのかもしれません。

もし、この狡猾な発明家が同じ時代に生きていなかったら、テスラは歴史に名を刻むことができたのでしょうか?
それとも、二人が同時代に生きていたからこそ、切磋琢磨することができたのでしょうか?

晩年はあらゆる栄誉を独り占めし、親友のヘンリー・フォードらと共に人生の休日を楽しんだエジソン。
片や代金の滞納でホテルを追い出され、夜のマンハッタンをさまよい歩いたテスラ。

生涯独身を貫き、公園の鳩だけを友としたこの知られざる天才科学者は、やがて誰にも看取られることなくホテルの一室で寂しく息を引き取ります。

今テスラの名前は、彼を敬愛するイーロン・マスクにより創業された、アメリカの電気自動車メーカーの社名にわずかに残るだけです。
願わくば、この「テスラ・モーターズ」に栄光あれ。

悪人エジソン(1)

トーマス・エジソンと言えば、白熱電球や蓄音機を発明した有名な発明王。

また、「天才は99%の汗と1%のインスピレーションに他ならない」の名言で知られる努力の人でもありました。

しかし、実業家としてのエジソンの実像は全く違っていました。
競争相手に打ち勝つために、夥しい数の犬や猫を殺戮した「殺人鬼」ならぬ「殺犬鬼」・「殺猫鬼」だったのです。

電球の発明で十分な富と名声を得たエジソンは、次に電気を普及させるために発電事業に挑みますが、これを契機に「電流戦争」が勃発します。
「直流」と「交流」の戦いです。

最初は、エジソンの提唱する「直流」が圧倒的に優勢でした。
直流はプラスとマイナスが固定されているため、電気の流れる方向が常に一定です。
ですので、モーターなどは実に簡単な構造で作ることができます。
一方「交流」の方は、プラスとマイナスが交互に切り替わるため、モーターの作りようがなかったのです。

この難題に答えを出したのがクロアチア生まれのセビリア人、ニコラ・テスラ。
テスラは一枚の設計図も描くことなく、交流用のモーターを作り上げてしまいます。
しかもそれは、5年前のある日ブダペストの市立公園を散歩しているときに突然閃いたアイデアを、拾った小枝で泥の小道に描きつけたイメージ図を思い出しながらのことでした。

この正真正銘の“天才”は、幼い頃から幻覚に悩まされていました。
ある物について考えると、その物体が確かな質感と量感を伴って目の前に出現するというのです。
やがて学校に通うようになると、もっと奇妙なことが起こります。
数学の問題が出題された瞬間に、頭の中の黒板に計算式と記号が浮かび上がり自動的に答えを導いてしまうのです。

“天才”の目には、99%も汗を流す発明家など、ただの凡才としてしか映っていなかったようです。
後にテスラは、エジソンをこう評しています。
「エジソンが干し草の山から針を見つけようとしたら、ただちに蜂の勤勉さをもってワラを一本一本調べ始め、針を見つけるまでやめないだろう。
私は理論と計算でその労力を90%節約できるはずだとわかっている悲しい目撃者だった」
テスラがなぜ「目撃者」という表現を使ったかについては、後で解説しますね。

テスラが交流モーターを発明したことと、彼のスポンサーにウェスティングハウスという大金持ちの発明家の会社がついたことにより、電流戦争の形勢は一気に逆転します。

なぜなら、直流は致命的な欠点を抱えていたからです。
それは送電ロスです。

直流の場合、送電の際に電線からかなりの電力が失われてしまうため、送電可能な距離はわずか2~3キロしかありません。
つまり、街中に発電所を建設しなければならないだけでなく、人口密集地以外では採算が取れないため発電所は建設できないのです。
ですので、送電ロスのきわめて少ない交流の方が絶対にいいのです。

しかし、莫大な資金を投じて、すでに50以上の直流発電所を建設してしまっていたエジソンは引くに引けません。
それよりなにより、エジソンは自分の発明した直流用の電球を、大量に売り捌かなければならないという商売上の宿命を負っていました。
ここに至り、電気の普及という理想などどうでもよくなっていきます。

追い詰められたエジソンは、最後の手段として「交流は危険である」というネガティブ・キャンペーンに打って出ます。
ウェストオレンジにある大研究所では、大勢の新聞記者たちを前にして、狂気の実験が連日繰り広げられていました。

1000ボルトの交流発電機に導線をつなぎ、そのブリキ片にイヌやネコを近づけて感電死させるのです。
実験用の動物は、無尽蔵にいました。
なぜなら、エジソンが子供たちを焚きつけて、野良犬や野良猫を一匹25セントで買い上げていたからです。
これだけでもかなり常軌を逸した行動ですが、さらにエスカレートしたエジソンは象までも犠牲にしてしまいます。

そして、象の次に選ばれたのは、なんと人間でした。
1890年、エジソンのゴリ押しに屈したニューヨーク州当局は、ウェスティングハウスの交流機を使って歴史に残る死刑執行を行います。
これが、私たちが大発明家と尊敬してやまないエジソンの、実業家としての知られざる一面です。

対するテスラも負けてはいませんでした。
こちらは、100万ボルトの交流を自分の体に通して照明を灯すという、何ともセンセーショナルな実験で安全性をアピールします。
今なら差し詰め「米村でんじろう」か「プリンセス天功」といったところでしょうか。
ついには、直流と交流の両方に投資していたあのJ・P・モルガンが説得に乗り出しますが、エジソンは全く聞く耳を持ちませんでした。

ここまでこじれた背景には、二人の間にドロドロの遺恨が存在していたからです。
実は、テスラはエジソンの下で働いていた時期がありました。

エジソンの盟友チャールズ・バチュラーの紹介状を携えて、1884年の夏テスラはパリからニューヨークに向けて旅立ちます。
途中で盗難に遭ったテスラがエジソン社に着いた時、所持品は自作の詩集と二本の技術論文、超難解な積分の解法を書きつけた紙切れと友人の住所を記したメモ、それに小銭がわずか4セントでした。

しかし、この着の身着のままの青年の技術的能力を、エジソンはすでに見抜いていました。
青年もまた、学歴がないのに数々の偉業を成し遂げた発明家を深く尊敬していました。
テスラはエジソンのもとで、休日もなく毎日18時間以上働きます。

ある日、直流発電機の問題点に気づいたテスラが改良計画を提案しました。
エジソンは、もしその計画を完成させたら5万ドルのボーナスを払うことを約束します。
尊敬する師の元で、寝食を忘れて仕事に没頭した数カ月は、テスラにとってとても幸せな日々だったことでしょう。

しかし、ついにその計画を完成させボーナスの支払いを要求した時、エジソンは信じられない言葉を吐きます。
「テスラ、君はアメリカ流のユーモアが分からないようだな」
結局、契約した金額以外1セントも貰えなかったテスラがエジソンのもとを去ったのは、1885年の春と言いますからわずか1年にも満たない短い関係だったことになります。
エジソンは、他人のアイデアを横取りするというエピソードに事欠かない男でした。

2014年3月のブログ『野口英世と森鴎外』でも書きましたが、人格的にどんな欠格者であっても、名声さえ勝ち取ってしまえば「偉人」として歴史に名を刻むことができるということでしょうか。
ところで、電流戦争の方はその後一体どうなったのでしょう?

人生の二つの扉

はっきり言って、これは誤訳だと思うのです。

キース・ジャレットが21歳の時リリースした初のリーダーアルバム、“ Life Between The Exit Signs” の邦題のことです。

正しくは『人生の二つの扉』ではなく、『出口標識間の人生』と訳されるべきです。
そもそもジャケットには、背中合わせに立つ二人のキースの頭上に、それぞれの出口を指差している標識が二つ写っているのですから。
ただ、この題名でアルバムが売れたかどうかはわかりませんが・・・。

「二つの出口」の意味するところは、そのメンバー構成から推し量ることができます。
ベースはオーネット・コールマン派のチャーリー・ヘイデン。
片やドラムスはビル・エバンス派のポール・モチアン。
キースのピアノは一曲毎に、フリー・ジャズとメインストリーム・ジャズの二つの出口の間を振り子のように揺れ動きます。

3歳でクラシックピアノのレッスンを始め、5歳でテレビのタレントスカウト番組で上位入賞。
6歳で地元の教会が主催するチャリティー・コンサートに出演し、7歳で有料のリサイタルを開いたという神童が、その敷かれたレールから逸脱したのは19歳の時。
名門のバークレイ音楽院をわずか1年で中退してしまいます。

ニューヨーク「ビレッジ・ヴァンガード」の月曜ジャム・セッションで、知り合いのテナー奏者に誘われるままピアノを弾いたとき、カウンターでその演奏を聴いていたのがアート・ブレイキーでした。
しかし、当時のジャズ・メッセンジャーズはひどい低迷期。
その待遇の悪さに嫌気が差し、たった4カ月で飛び出してチャールズ・ロイドのグループに参加した頃から頭角を現します。

しかし、彼のジャズピアノの基礎はビル・エバンスではありません。
ペンシルベニア州デラウェア・ウォーター・ギャップの山間にあるジャズクラブ「ディア・ヘッド・イン」に出入りしていた10代の頃に目の当たりにした、ジョン・コーツです。

コーツは、後にキースがビッグネームになった時、「瓜二つの演奏をする」と話題になったピアニストですが、種明かしをするとキースがコーツのスタイルを模倣しただけの話です。
でも、キースがこれほど有名になってしまうと、誰もそれを「盗用」と呼ばなくなるから不思議です。

若い頃は二つしかなかった「出口標識」は、年を重ねるごとに増えていきます。
テナー・サックスのデューイ・レッドマンを加えたアメリカン・カルテットの最高傑作“Death And The Flower”では、日本の「禅」を彷彿とさせる宗教的な死生観までをも提示してみせました。

このアルバムの邦題は『生と死の幻想』。
今度は大成功です。
この題名は、キース自身が書いたこんな詩の一節を参考にして意訳したものだそうです。

「私達は生(誕生)と死の間を生きている。あるいはそのように自分自身を納得させている。
本当は自らの生の絶え間のない瞬間に、生まれつつあると同時に、死につつあるのだ。
私達はもっと花のようにつとめるべきである。
彼らにとっては毎日が生の体験であり、死の体験でもあるから。
それだけに私達は花のように生きるための、覚悟を持たなければならないだろう。
死を友とし、忠告者として考えよう。
彼らは私達を生に目覚めさせ、また晴れやかに花を咲かす」

なんか、哲学してますよね。
どうやら今度は、「生」と「死」の間の人生を歩んでいるようです。

そんなキースが転機を迎えたのは1983年。
それまでのアヴァンギャルドな演奏とは打って変わり、突如としてスタンダード・ジャズを目指します。

「お変わりありませんか?」と挨拶を交わす日本では、ピアノトリオによるスタンダード・ジャズが人気なのは頷けます。
でも、"What's new?"が文化のアメリカでは、手垢にまみれた過去のジャズを演奏することはほとんど自殺行為です。
キースは、なぜこんな無謀な試みをしたのでしょう。

きっかけはハービー・ハンコックのVSOPの成功によって俄かに脚光を浴び始めた、アコースティック・ジャズに対する懸念だったのではないかと思われます。
特に、ウィントン・マルサリスの「ブルースは黒人にしか演奏できない」という発言には真向から反論します。

曰く「ウィントンが優れたブルースを演奏しているとは思えない」。
キースの『スタンダーズ』の発表に触発されたマルサリスが、『スタンダード・タイム』をリリースしたのはその3年後。

この二人が、現代のメインストリーム・ジャズの道筋を作ったと言っても過言ではないでしょう。
ただ、彼らにとってメインストリーム・ジャズというものが、クラシックも含めて数ある「出口標識」の、ワン・ノブ・ゼムにしか過ぎないのが少々気になるところではありますが・・・。

しかもキースの場合は、即興のピアノソロの方がメイン出口になってしまった感さえあります。
ただソロというのは、とてつもない集中力を要します。

1996年ツアー先のイタリアで、極度の疲労感に襲われ静養に追い込まれたキースの診断名は「慢性疲労症候群」。
そしてそこには、妥協を許さない彼の完璧主義も色濃く影を落としていました。

2014年の大阪で、度重なる無遠慮な観客の咳に業を煮やし、何度か演奏を中断した挙句にコンサートを途中で切り上げてしまいます。
キースほど厳格な姿勢で、演奏と向き合うミュージシャンは他にいません。

整形外科医でジャズ・ジャーナリストの小川隆夫の証言があります。
小川は、ニューヨークの「エイヴリー・フッシャー・ホール」での演奏を終えてホテルに戻ったキースが、ロビーでひどく落ち込んでいるのを目撃します。

「ミス・タッチは仕方ないとしても、表現したいことが完璧にできないもどかしさにがっかりした。
これまでの努力をコンサートで実らせられない情けなさに気持ちが萎えている」

ところが小川によれば、ゲーリー・ピーコック(ベース)、ジャック・ディジョネット(ドラムス)という、『スタンダーズ』でお馴染みの名手を従えたトリオ演奏はこの日も絶好調で、ソールド・アウトの客席はスタンディング・オヴェイションに包まれ、キースも3回のアンコールに応じていたのです。
しかし、キースの見解は全く異なるものでした。

「アンコールの拍手ほど嬉しいものはない。
しかしそれが正しい評価とは限らない。
コンサート・マジックというか、人々に拍手させる力には演奏とは無関係な要素もある」

その後深夜に近いマンハッタンに繰り出し、辺りが明るくなりかけた頃ホテルに戻った小川が目にしたのは、なおもロビーで沈思黙考しているキースの姿でした。

そもそも、キースはなぜ“Doors”ではなく、“Exit Signs”という表現を用いたのでしょうか。
「出口標識」があるということはすなわち、今いる場所が屋内であることを意味します。
彼は、この言葉で「閉じ込められている」状態を伝えたかったのではないでしょうか。

そして、その閉じ込められている部屋とは、もしかしたら「実験室」なのかもしれません。
なぜならキースの即興演奏は、コンサートというよりもワークショップそのものだからです。
うーん、やっぱり芸術は「出口なし」ということなのでしょうか。

遅刻がきっかけで(2)

佐久間象山は、日本で初めて電池を作った人物です。
1850年(嘉永7年)、ペリーは横浜村で日米和親条約を結ぶに際し、幕府に寄贈したモールス電信機のデモンストレーションを行いました。
その時、象山もその場に居合わせていたのです。

日本が鎖国している間に、世界の文明は遥か先に進んでしまっていました。
しかし、それは絶対に埋められない距離ではありません。
その証拠に、この電信機の電源となっていた「液体電池」なるものを、象山は自作してみせたのです。

石黒から西洋の発明品の素晴らしさを伝え聞いた先蔵は一念発起し、昼は叔父の工場に勤めながら夜は決して遅れない時計の開発に没頭します。
睡眠時間3時間という壮絶な日々を乗り越え、ついに先蔵は「液体電池」で正確に動く「連続電気時計」を完成させます。
これがあれば、ラジオや時報がなくても正しい時刻がわかるはず。

しかし、問題は「液体電池」にありました。
この電池には電解液の補充が必要な上、冬場には液体が凍ってしまって使えないという致命的な欠点があったのです。
要するにどんなに正確な時計を開発したところで、「液体電池」を電源としている限り実用に向かないのです。

時計だけではありません。
「液体電池」を電源とする通信機などすべての電気機器が、寒冷地では全く役に立たないのです。

ところが、不眠不休で研究に没頭する先蔵の執念は岩をも貫きます。
なんと今度は、過酸化マンガンを使った「乾電池」を完成させたのです。
これさえあれば、どんな寒冷地でも大丈夫。

しかもこの世紀の大発明は、世界に知られるチャンスにも恵まれました。
先蔵の相談相手でもあった帝国大学(現在の東京大学)教授の田中館愛橘が、1893年(明治26年)のシカゴ万博に出品した地震計の電源として、この「乾電池」を採用したのです。

ついに先蔵の「乾電池」は、世界の檜舞台に立ったのです。
先蔵は天にも昇る幸せを感じますが、まさかこの出品が裏目に出るとは夢にも思っていませんでした。

その年の暮れ、アメリカから「ドライ・バッテリー」という、その名称までも完璧に模倣した商品が輸入されたのです。
なんと今度は世界が、日本の技術の模倣を始めたのです。

すでに特許登録が認められていた先蔵は、勢い込んで特許局に駆け込みます。
しかし、職員の言うことには、この特許はあくまで日本国内のものとのこと。
アメリカに申請するには、別に多額の出願料が必要となります。
国内の特許申請でさえ、妻いさが内職の仕立てで稼いだお金と、その納め先から前借りしたお金を併せてなんとか実現できたものです。

もはや、先蔵にはどうすることもできませんでした。
ところが、特許は大した問題ではありませんでした。

最大の問題は、時代が追いついていないことでした。
銀座2丁目に、デモンストレーションとしてアーク灯が点灯されたのは、シカゴ万博から遡ることわずか11年前。
一般家庭に電灯が点るようになるまでには、昭和の初めまで待たなければなりません。

つまり、そもそもこの時代には、「乾電池」を使うような電気機器が普及していなかったのです。
せっかく西洋の技術に追いつき、そして追い抜いたというのに・・・。
勇んで設立した「屋井乾電池」も開店休業状態となり、いさは質屋通いの日々を送ります。

しかし、追い詰められた先蔵にも、ようやく女神が微笑む時が訪れます。
1895年(明治28年)日清戦争が勃発すると、突如陸軍から大量の注文が入ります。

翌年の1月12日、「乃木希典少将、満州海城を攻略す」の大見出が踊る号外を手にした先蔵の目は、その後に続く文字に釘付けとなりました。
「厳冬の戦地で大活躍!世界一の“屋井乾電池”極寒の地でも氷結せず」

先蔵は喜びのあまり、手の震えを抑えることができませんでした。
「乾電池」が世に認められた瞬間です。
この時先蔵は陸軍から得た利益のすべてをつぎ込んで、石黒や田中館を始めお世話になった人々を招き盛大な謝恩会を催します。
一つの発明の陰に、どれだけ多くの人々の支えがあったことか。

後に「乾電池王」と呼ばれた先蔵でしたが、その死後は急速に会社が傾いてしまいます。
代わって、乾電池事業を拡大していったのが松下幸之助。

そして日露戦争が勃発すると、今度は島津製作所の島津源蔵が開発した充電のできる電池、すなわち「蓄電池」が大活躍しバルチック艦隊撃破に貢献します。
1905年(明治38年)5月27日未明、連合艦隊の哨戒艦・信濃丸が三六式無線電信機で打電した「敵艦隊見ユ」の電文は、この蓄電池なくして東郷司令長官の乗る旗艦・三笠には届かなかったのです。
後の「GSバッテリー」は、島津源蔵の頭文字からとったブランド名です。

佐久間象山から脈々と続く、電池に関する先人たちの執念とも言うべき研究心。
それが、現在私たちが時計代わりに使っているスマホに繋がっているのです。

もし、あの時先蔵が入学試験に遅刻していなかったら、という仮定はあまり意味がありません。
誰かが不便さを感じたら、そこには必ず新しい発明が生まれるものなのです。

重要なことは、先蔵が失意のどん底にあってもなお、必死で立ち上がろうとしたことです。
失意をもたらした、原因そのものを解決しようとしたことです。
その不屈の精神こそ、「ものづくり立国ニッポン」の真髄なのではないでしょうか。

ただこれからは素晴らしい発明というものは、戦時ではなく平和な世の中でこそ脚光を浴びる時代であってほしいと心から願います。

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